フランス銀行
Banque de France (フランス語)フランス銀行正面
本店パリ1区トゥールーズ伯邸
フランス銀行(フランスぎんこう、仏:Banque de France)は、フランスの中央銀行。 フランス銀行は欧州中央銀行制度に参加する。ユーロ導入前は独自通貨フランス・フランを発行していた。フランス銀行の定款は、1803年4月14日の法律と以後制定された法律の集合から成る。こと信用業務に関する大枠は、1973年1月3日の定款全面改訂まで、1808年1月16日の基本定款statuts fondamentaux が規定していた。なお、改訂時はジョルジュ・ポンピドゥー政権であった。 大不況 (1873年-1896年) を通じて事業拡大が法的に容認されてゆき、1897年の立法で完成した。以下1880・1897・1913年において、拠点数は中央1地方92・中央10地方237・中央10地方582、商業手形割引は総額8,696,887,700・10,364,834,800・20,005,642,400フラン(割引の地方拠点取扱い分は52.8・53.1・60.5%)、証券担保貸付は総額325,818,600・1,211,809,400・6,382,410,700フラン(割引の地方拠点取扱い分は37.0・59.3・76.7%)であった[1]。銀行設立100周年記念メダル フランスの銀行券流通残高は1870年で20億フランに満たなかったのが1910年に60億フランほどに達し[2]、預金通貨総額は1870年に3億フランほどであったのが1910年に100億フランを突破したとみられる[3]。オートバンクが露清銀行などへ巨額の資金を投じたことから、時論家は国内産業へ資金が十分に供給されないと主張した[注釈 1]。この旧説を支持する実証的な研究は今でもある[4] 。資金投下そのものは十分であったが[5]、投下先は大企業であった[6]。 戦間期に増えた政府債務は預金供託金庫と連携して処理にあたった。1938年、預金供託金庫の準備金は一部が国庫の一般会計予算に自動算入されるようになり、フランス銀行は自身の準備金と預金供託金庫から管理を委任されていたそれを、戦争の災禍を免れるために簿外処理して北米の銀行へ移送した。 第二次世界大戦の戦費を全て引受けていたフランス銀行は国有化され、1949年8月4日シコバンの創設に参加した。 戦後復興に貢献したのは後述のクレディ・アグリコルや庶民銀行(現BPCE)であって、オートバンクではなかった。復興のために発行された多くの手形が割り引かれ信用創造が起こった。[6] 第二次世界大戦の前後に副総裁を務めたジャック・リュエフ
概要
オスカル・ロティ製作 (1900年)
フォーチュン1990年7月30日号に発表された全世界企業リストに基づいて欧州系銀行の資産ベスト10を考えると、第1位、2位、3位、7位、8位、10位がフランスの銀行であった。4位と5位がそれぞれバークレイズとドイツ銀行であった。2002年4月に政府が調査結果を公表するまで、フランスの銀行はホロコーストによって生じた休眠口座に対する補償をめぐりプライバシー法に訴えて名義公開を拒んできた。フランスの各ユダヤ人組織は(ストラスブールなど)、ホロコースト口座の「リスト非公表にまで同意した」。スイス銀行に対しては強硬姿勢で臨んだステュアート・E・アイゼンシュタット(英語版)は、国際世論の後押しがないようなことを述べて、また合衆国からクラスアクションが起こりそうになってもフランスの主権を尊重するという理由をつけて、フランス系銀行には手出しをしなかった。[7] 1716年に経済学者であるジョン・ローが前身の総合銀行(Banque Generale)を設立。1718年に政府が獲得し、王立銀行(Banque Royale)に改称した。18世紀中ごろから主にサン=ドマングの収益性がフランスの経済を支えた。 1789年にフランス革命が起き、同年12月から1796年までアッシニアが流通した。この序盤でフランス東インド会社の脱税事件が発覚した。1797年、財務大臣ラメルの公債1/3化政策が採用された[注釈 2]。1800年、ナポレオン・ボナパルトがフランス内の貨幣統一を目指し、フランス銀行(Banque de France)を設立した。このときにフランス銀行は償却金庫から原資を委託された。1803年、フランス銀行はパリの発券銀行となった。1806年4月22日に銀行総裁、副総裁を政府任命制とした。 ナポレオン戦争終結後の1817年、国がロスチャイルド家とホープ商会を通じて5%利付公債を57%で募集[8]。同年から翌1818年にかけて、5%利付国債合計2700万ポンド相当を額面52.5%から67.6%でベアリング商会筋で発行した[9]。一方でこの2年間、間接税の年徴収額(千万以下切り捨て)が1兆157億フランから1兆7653億フランに急増した。1819年は1.9兆、1820年は1.4兆となり、1821年から1830年までは1.93兆を下らなかった。一方直接税は、1815年から1830年でおよそ2.9兆から3.6兆の間を推移した。[10] 1825年の恐慌でフランス銀行はイングランド銀行の救済融資に動いた。 1830年1月12日、8000万フラン国債を発行価格102.075%年利4%でロスチャイルドが引受けた[11]。6月、アルジェリア侵略。 1831年4月、サン・シモン主義者が1.2億フランの国債を額面価格で3万人から直接公募する提案をして却下される。同年、入札によりロスチャイルドらオートバンクが額面の84%で引受けた。翌1832年はオートバンクを総動員したシ団が引受を独占。1841年、3%利付国債1.5億フランはカルテルでロスチャイルドが3/4を引受けた。引受価格は額面の78.52%だった。1844年、公共事業国債2億フランはロスチャイルドが84.75%で引受けた。1847年の3.5億フラン国債もロスチャイルドが75.25%で引受けた。[12][注釈 3] 1848年3月、銀行券の発行独占権が全国に拡大された。フランス銀行券が法定通貨となり、兌換はフランス銀行側が通知することにより日延べができた。5月までのデクレは1848年憲法の制定に先駆けた。 1857年6月9日の立法により、割引歩合を6%以上に引き上げることが許された。この法律は拡大解釈され、国内のあらゆる銀行に適用された。以降、割引率の引き上げは準備金の流出を防ぐ手段として継続的に行われた。 1860年、各植民地銀行を助ける公認コルレスバンクの地位を政府の要請でパリ割引銀行に譲った。 1860年代初頭、フランス銀行はサヴォワ銀行 1871年、5月にドイツ帝国の支援を受けたパトリス・ド・マクマオンがパリ・コミューンを鎮圧。
近代
オートバンク全盛期
深刻な普仏戦争敗北