フランス軍
Armees francaises
指揮官
大統領エマニュエル・マクロン(第五共和政第8代)
国防大臣セバスティアン・ルコルニュ(第25代)
統合参謀総長陸軍大将・ティエリー・ビュルカール
フランス軍(フランスぐん、フランス語: Forces armees francaises)は、フランス陸軍(Armee de Terre francaise)・フランス海軍(Marine nationale)・フランス空軍(Armee de l'air francaise)およびフランス国家憲兵隊(Gendarmerie nationale francaise)を保有するフランスの軍隊。仏軍とも。
歴史
第一次世界大戦時のフランス軍詳細は「西部戦線 (第一次世界大戦)」を参照
第二次世界大戦時のフランス軍「マジノ線」も参照詳細は「ナチス・ドイツのフランス侵攻」を参照
フランスは普仏戦争や第一次世界大戦で戦火を交えたドイツ対策として、仏独国境線にマジノ線と呼ばれる大要塞群を構築することとした。この要塞線の建築でフランス軍の予算がほとんど使用されたため、装備の更新ができなかったという説があるが、これは正しくない。マジノ線の構築のためにフランスの軍事予算は毎年増額されたものの、1933年には58%、1934年には33%の予算を余らせていた。また、1940年には戦車2380両、軍用機2441機を保持しており、イギリス遠征軍を加えればドイツ軍に匹敵した。また個別の兵器でもソミュア S35やルノーB1などドイツ軍のII号戦車やIII号戦車を上回る能力を持つ兵器を装備していた[1]。
しかしフィリップ・ペタンやマキシム・ウェイガン、モーリス・ガムランといった軍の首脳部は第一次世界大戦型の陣地戦による防衛を重視しており、戦車は各師団に分配され、機甲師団による集中運用ができなかった。シャルル・ド・ゴールを始めとする一部の軍人は機甲師団の創設などを訴えたが全く無視された。
また空軍も創設されず、陸軍の補助的存在に過ぎなかった。ペタンは配備された飛行機も、乱立する航空機メーカーが多種多様な航空機をそれぞれ生産していたため機種の統一が図れなかった。
海軍は新型戦艦(ダンケルク級戦艦・リシュリュー級戦艦)や多数の有力な艦艇、航空母艦も保有していたが、作戦海域を地中海に主眼を置いていた上、ナチス・ドイツの侵攻では陸戦が主体であったためさしたる行動も取れぬまま降伏を迎えた。
兵員面でもナポレオン戦争以来の兵員不足を補うため、植民地から徴用された兵士が多かった。また通信分野での理解も遅れており、すでに無線通信やテレタイプなどを採用していたドイツに対し、フランス軍は自動車やオートバイによる伝令、伝書鳩を主軸にしており、迅速な命令を下すことはできなかった。
このような状況で1940年フランスはナチス・ドイツの侵攻に直面した。フランス軍は敗退を重ね、一ヶ月足らずでフランスは降伏する。
降伏後、フランス軍はナチス傀儡のヴィシー政権軍と、ダイナモ作戦などによって亡命した自由フランス軍に分かれた。一部の海軍の艦艇はイギリス軍と戦火を交えたほか(メルセルケビール海戦)、1942年にドイツの接収を防ぐため、1942年に自沈している。その後、ヴィシー政権は中立を標榜したために表向きには戦闘を行わなかった。しかし植民地軍の一部は連合国軍と戦っている。
1942年、トーチ作戦により北アフリカのヴィシー政権軍は連合国軍と戦火を交えたが、フランソワ・ダルラン提督が降伏したため戦いは短期間で終わった。北フランスのヴィシー軍は自由フランス軍に合流したが、ヴィシーフランス本土はドイツ軍に占領された。その後、自由フランス軍は連合軍の一員としてノルマンディー上陸以降の反攻作戦で活躍し、パリ解放なども果たした。
第二次世界大戦後のフランス軍「第一次インドシナ戦争」、「アルジェリア戦争」、および「将軍達の反乱」も参照
第二次世界大戦が終結すると、フランスは戦勝国としてアメリカやイギリスなどと共に資本主義国として冷戦を迎え、NATOに加盟し欧州の重要な軍事力として存在するようになる。
一方で、植民地内での独立の気運の高まりを押さえ込むために軍事力を行使することもあり、インドシナ戦争では近代的な兵力を投入したにも拘らず敗退してしまった。この他にも、アルジェリア戦争など植民地に於ける戦争の続発や、フランスの植民地政策について民族自決容認(アルジェリア独立容認)へ転換を進めたフランス第四共和政政府に対する政府転覆も視野に入れた軍事行動(アルジェリア駐留軍によるド・ゴール将軍政界復帰要求。アルジェ駐屯落下傘部隊のコルシカ島不法進軍・占拠、及びフランス本土・首都パリへの逆侵攻示唆。これらの一連の動きにフランス軍中枢部も支持・呼応を伺わせた)など著しいシビリアン・コントロール喪失状態・関東軍化暴走状態を見せるが、担ぎ出した当のド・ゴール将軍(および新たに成立したフランス第五共和政)が決起部隊・決起部隊支持軍組織の意図に反し、(国内世論と自身の国民的人気を強力な支持基盤に)アルジェリア独立政策支持を表明。大幅に強化された大統領執行権をもって、巧妙・迅速に法整備や軍部人事介入・組織改革を推し進めた事が功を奏しアルジェリア独立を達成。主要植民地を放棄した事で、海外での軍事介入は激減していく。
また、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化に端を発した第二次中東戦争には、イギリス、イスラエルと共に参戦したが、アメリカの圧力や国際社会の非難もあり撤退した。