フランス社会党_(SFIO)
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フランス政党フランス社会党
Parti Socialiste Francais
Section Francaise de l'Internationale Ouvriere
SFIOのシンボル
成立年月日1905年
前身政党フランス社会党[1]
フランス国社会党[1]
解散年月日1969年
解散理由党名変更[2]
後継政党フランス共産党 (1920)[注 1]
社会党(PS) (1969)[2]
政治的思想・立場中道左派[2][3] - 左翼[4]
マルクス主義[4][5]
フランス社会主義[5]
社会主義[4]
機関紙『リュマニテ[注 2]
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フランス社会党(フランスしゃかいとう、: Parti Socialiste Francais[3])は、1905年に結成され1969年まで存続したフランス社会主義政党である。正式な党名は労働インターナショナル・フランス支部(ろうどうインターナショナル・フランスしぶ、仏:Section Francaise de l'Internationale Ouvriere, 略称:SFIO)[2][5]
概要

1969年結党の現在のフランス社会党(PS)(正式名称は単に「社会党」(仏:Parti Socialiste))の直接の前身[注 3]であり、現・社会党と区別する際には「旧社会党」もしくはSFIOの略称で呼ばれる。また「フランス社会党」は通称であり、正式な名称は「労働インターナショナルフランス支部」(この略称がSFIO)である。さらにそれぞれ「社会党」を名乗る2つの社会主義政党が統一して結党されたという事情から、旧来の2政党と区別して(特に1920年における共産党分裂の時期までについて)「統一社会党」(仏:Parti Socialiste Unifie)[注 4]と称する場合もある。
沿革
前史:社会党の源流ジュール・ゲード / SFIO初期の左派指導者。フランスの参戦に協力する姿勢をとった。

フランスにおける社会主義政党の歴史は第三共和政が樹立された19世紀後半にまで遡る。1880年ジュール・ゲードらによって労働党(POF)が結成されたのを嚆矢として、ポール・ブルス(Paul Brousse)らによる「フランス社会主義労働者連盟」(FTSF / 1882年)、ジャン・アルマーヌ(Jean Allemane)らによる「革命的社会主義労働党」(POSR / 1890年)、エドゥアール・ヴァイヤン(Edouard Vaillant)らによる「革命的社会党」(PSR / 1898年)などが次々と結成された。これに加えてジャン・ジョレスらの下院議員が独立派(無所属系)社会主義者(SI / Socialistes Independants)として活動しており、社会主義者は大まかに以上の5潮流に分かれて対立・抗争していた。このことは一方で労働総同盟(1895年結成)を中心とする労働運動の政党離れと、労働運動におけるアナキストおよびサンディカリストの影響力拡大という結果を生んだ。

1896年には社会主義者系の国会議員団により共同綱領(サン=マンデ綱領)が作成され、1898年には社会主義相互協力委員会が結成され、社会主義者の大同団結の機運が高まった。しかしここで彼らは無所属の社会主義者アレクサンドル・ミルランの入閣問題に直面する。すなわちミルランは1899年、保守派のワルデック=ルソー内閣に商相として入閣したが、これを支持するか否かをめぐってフランスの社会主義者は完全に二分されたのである。POFおよびPSRが入閣に反対したのに対し、FTSF・POSR・独立派は入閣を支持して両者は激しく対立、このため入閣反対派は1901年ゲードを中心にフランス国社会党(PSDF)として、入閣支持派は翌1902年ジョレスを中心にフランス社会党(PSF)として統合された。
初期:結党と戦争協力ジャン・ジョレス / SFIO創立初期の指導者。穏健な社会主義者であると同時に熱烈な反戦派であった。

PSDF・PSFの2党が加盟する第二インターナショナル(労働者インターナショナル)のアムステルダム大会(1904年)は、闘争の効果を上げるため一つの党にまとまることが望ましいと決議(アムステルダム動議)し、ジョレスもこの動議にしたがって、両派の対立の原因となっていた社会主義者による閣内・閣外でのブルジョワ政権への協力を否定する声明をおこなった。これにより2党は翌1905年合同し第二インターナショナル・フランス支部としてのフランス社会党(SFIO)が成立、前年1904年にジョレスによって創刊された『リュマニテ』は党の機関紙となった。

SFIOはマルクス主義の原則を受け入れて改良の党ではなく「階級闘争および革命の党」であることを宣言し、多数派となったゲード派が優位を占めたように見えたが、実際に主導権を握ったのは改良主義路線を採るジョレス派であった。1908年トゥールーズ党大会では「革命か改良か」をテーマに激しい論戦が交わされ、左のゲード派やヴァイヤン派、革命的サンディカリストたちに配慮し、「プロレタリア解放のための権力掌握」「ゼネストにおける武装」「反乱に頼る権利」などを確認すると同時に、改良と組合運動・議会闘争など合法運動の重要性を謳い、以後ジョレスの改良路線が党内で定着していった。しかし革命的サンディカリストに支配される労働運動との関係は改善されず、SFIOはより広範な市民層の間で支持を拡大し、第一次世界大戦直前には下院に100名に及ぶ議席を有する大政党となった。

また当時迫りつつあった世界戦争の危機に際してジョレスは、戦争は資本主義にその根源を求められるが、プロレタリアートの力によって防止することが可能であると考え、それを第二インターナショナルの運動の力によって実現しようとした。1907年の第二インター・シュトゥットガルト大会では彼によって反戦の動議が提出され、満場一致で可決された。しかしこの問題についてもSFIO内部では微妙な温度差があり、ゲードなどの左派は国際主義を掲げつつも、戦争が資本主義の問題である以上、戦争よりも資本主義に対する闘いを重視すべきであると主張した。開戦直前の1914年7月14日、ジョレスはヴァイヤンとともにSFIO全国大会で戦争阻止のための労働者の国際的ゼネストを行う動議を提出して可決されたが、その直後の7月31日国家主義者に狙撃され死去した。これにより党は一気に戦争協力へと傾き、8月3日のフランスによる対ドイツ宣戦布告とともに、SFIO議員団は一致して戦時予算・戒厳令などに賛成して戦争協力のための神聖同盟に参加、同月末ゲードら党幹部も戦時内閣に入閣した。
中期:党の分裂と人民戦線政権レオン・ブルム / 1920年の共産党分裂後の党勢の復活に尽力し、その後人民戦線政権の首班となった中期のSFIO指導者。


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