フランス海軍
フランス海軍(フランスかいぐん、フランス語: Marine nationale、MN)は、フランスが保有する海軍。フランス海軍のロゴマーク
フランス軍は第二次世界大戦での教訓から強力な軍事力を構築しており、フランス海軍も戦略核兵器(SLBM搭載原潜)や航空母艦(空母)を含めた艦艇を保有している。21世紀においても世界各地に海外領土が点在し、同盟国や軍事協力をしている国も多いことから、自国近海(北大西洋と地中海)だけでなく、カリブ海や南大西洋、インド洋、太平洋でも小型艦艇を駐留させたり、大型艦を派遣したりしている。
海軍司令部はパリの総司令部、ブレストの大西洋艦隊司令部、トゥーロンの地中海艦隊司令部及びシェルブールの英仏海峡小艦隊司令部が存在する。 中世の英仏百年戦争以来、フランスはイギリスと欧州においてライバル関係にあった。 1688年、イギリスで名誉革命が起こると、自らの支援するジェームズ2世を追放されたルイ14世はイギリスに対し敵対的な政策を取り、1690年にはビーチ―・ヘッド沖の海戦でトゥルヴィーユ率いるフランス艦隊がイギリス・オランダ連合艦隊に完勝した。両軍合わせて120隻超というこの海戦の規模は当時屈指のものだった。 フランス海軍は宰相リシュリュー、コルベールの采配に因る強大な国力を背景に欧州随一の勢力を誇ったが、イギリス海軍も闘志と技量でこれに報い、英仏海峡両岸および大航海時代を経て世界各地に広がった植民地と本国を結ぶ長大な航路上で双方の船を襲い合った。この『ゲール・ド・クルース(通商破壊戦)』と呼ばれる長い戦いの中で、ジャン・バール、フォルバン、デュゲイ・トルーアンなど現代までフランス海軍の艦名に引き継がれる海軍軍人兼私掠船船長が輩出された。 1745年にフランスは保護下にあるステュアート朝の王子チャールズ("チャールズ3世")をスコットランドに上陸させて彼の復位を企図したが、イギリスの海将ヴァ―ノンとアンソンの善戦の前に援軍は撃退され、チャールズもフランスへ逃げ帰ることになった。 帆走海軍時代の海戦では必ずしも敵艦を撃沈せず、むしろ報奨金が貰えるのでその方が得な移乗攻撃で拿捕する戦い方が主流だった。しかし18世紀中頃に英国海軍が戦術を改良し、統制の取れた(しかし柔軟性を欠く)一列陣形より個艦の状況判断を優先した(主導権を握りやすい)風上からの近接戦闘を重視するようになると、フランス海軍は徐々に1759年のキブロン湾の海戦や1761年のフィニステレ岬の海戦など、イギリス海軍相手に劣勢な戦いを強いられるようになった。 北米大陸では1750年代より断続的に英仏両国間で植民地争奪戦が起きており、フランスがアカディアを失う劣勢になっていた。だがその戦費の負担に対する反発から1775年、北アメリカのイギリス植民地が反乱を起こし、翌年独立を宣言するとフランスは宿敵イギリスの敵となったこの「合衆国」への支援を決定。1778年から欧州沿岸でのジョン・ポール・ジョーンズの私掠船活動に便宜を図った他、艦隊を動員してアメリカへ軍需物資とラファイエット、ロシャンボーらの率いる援軍を送り届けると共に、スペインも同盟に加えてカリブ海のイギリス植民地を攻撃した。
沿革
英仏対立
アメリカ独立革命