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フランス法(フランスほう、仏: Droit francais)は、フランスで発展し、適用されてきた法の総体を指す言葉である。 フランス法の歴史は、フランク王国の成立に始まり、同じ大陸法系に属するドイツ法と密接な関係を有する。 フランス法は、ローマ法、教会法から多大な影響を受けつつも、独自の発展を遂げている。 「フランス法」という概念が文献に最初に登場したのは16世紀のことで、当時のフランス法の概念は、教会法やローマ法を含まず、王令、慣習法、パリ高等法院の判例を指していた。 フランス法において、「法」とは、伝統的に、自然法と実定法の両者を含むと解されていたが、20世紀以降、フランスにおける実定法に相当すると解されるようになった。 フランス法の体系は、講学上、私法 と公法 の二つに分けられるが、実務用語としては、民法、刑法及び行政法の3つの基本的な法領域があるといえる。欧州委員会の2005年11月の声明は、EU法は第4の法領域と考えるべきとしている。 フランス革命より前のフランス法を「古法」という。 もともと476年にゲルマン人の一支族であるフランク人が西ローマ帝国を滅ぼしてフランク王国が成立するまでは、現在のフランス地域(ガリア)では、文明化された最初の法体系であるローマ法が適用されていた。フランク王国では、当初、ローマ帝国の市民であったラテン系先住民には旧来のローマ法を適用し、フランク人にはフランク法を適用する属人主義をとっていた。 843年 、フランク王国がローマ・カトリックを受容してラテン系先住民との宥和政策をとると、キリスト教を媒介としてフランク人とラテン系先住民は、(特にフランス南部では)徐々に融合していき、8世紀半ばカロリング朝が成立し、カール大帝が800年にローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授かって皇帝理念の継承者となると、更にその傾向は強まっていった。 843年ヴェルダン条約によってフランク王国は西フランク王国・東フランク王国・中フランク王国の3つの王国に分割され、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原形が成立したが、さらに870年中フランク王国が再分割されて西フランク王国と東フランク王国が成立したことによってドイツ法と区別されるフランス法の歴史が始まることになる。 西フランク王国末期になると、ラテン系先住民と融合が進み、当初の属人主義が崩れ、属地主義がとられるようになり、987年にカペー朝が成立する頃には、フランス北部ではゲルマン的慣習法が、フランス南部ではゲルマン法と混交した、卑俗法 1100年頃ボローニャに法学校ができ、やがて大学へと発展して、1240年に註釈学派のアックルシウス(Accursius)によってローマ法大全の「標準注釈」(Glossa Ordinaria)が編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、フランスでは、パリ大学で、ローマ法が教授されるようになった。当時の大学はローマ・カトリックは切っても切り離せぬ関係であった。このような背景の下、中世後半になると、ヴェネツィアを中心に商業が発達し、それがヨーロッパ全土に拡大していったが、このことが封建的な地域ごとの慣習法を忌避する機運を更に高め、国を超えて商人だけに適用される慣習法の発達を促すことになるが、フランスでは神聖ローマ帝国(ドイツ)に対抗するという政治的な理由から、フィリップ2世が1219年ローマ法の適用を禁止する。このことも後にフランス法固有の慣習法の存在を意識させる一因ともなる。 その後、14世紀になると封建制は解体を始め、徐々に王権に権力が集中し始める。まず、フィリップ4世は、教皇に対抗するため、1302年に聖職者、貴族、平民の代表者を集めて全国身分会議(l'Etats generaux)を開催し、1303年のアナーニ事件をはじめとするアヴィニョン捕囚をきっかけに教皇、ローマ・カトリック教会の権威は失墜し、教会法は徐々に影響力を低下させていった。また、ローマ法の研究が進む中、教会法は、カトリック信者でありさえすれば、地域どころか国を超えた普遍性を有するものとして一般法(jus commune、ユス・コムーネ
概要
フランス法の歴史詳細は「フランスの歴史」を参照
古法時代
シャルル7世は、ジャン・ボダン、ニッコロ・マキャヴェッリの影響の下で、国王の主権の概念を持ち出し、1438年に教皇庁に対しフランス教会の自立を主張し、1454年にモンティル=レ=トゥールの王令
を発し、フランス全土の慣習法の編纂を命じた。このことが後にイタリア起源のローマ法からの離脱を促す。15世紀中頃、英国との100年戦争が終わると、封建制に基盤にしていた諸侯はその力を失い、その後、国王が自身の経済的基盤となる産業を保護する重商主義政策をとったことにより徐々にフランスの絶対王政は確立する。これに伴い、教会裁判所および封建領主の裁判所は衰退し、これに代わって国王の裁判所がその地位を確立したのである。
フランソワ1世は、1539年にヴィレル=コトレの勅令よってフランス語を法及び行政の言語(公用語を参照)に選定した[注釈 1]。このことが後にフランス法の独自性を自覚させることになる。
絶大な権力を得た国王は、全国身分会議を嫌い、1614年のブロワ会議を最後にこれを開催しなくなってしまうが、これを不満として貴族は、当時中世的特権が保障されていた裁判官という職業に目をつけ、官職売買によって裁判官となり、国王に対抗するようになった。そのため、高等法院は、賄賂と不正の温床となり、後のフランス革命においては、旧体制の不正のシンボルとなる。
16世紀中には、フランス国内のほとんどの慣習法の編纂作業が終わり、その結果適用範囲がその地域に限られている「局地慣習法」と適用範囲の広い「普通慣習法」の違いがあることが判明した。普通慣習法の中でも、とりわけ重要なものを「大慣習法」と呼び、特にパリの慣習法が重視される傾向が生じた。同時期に人文主義法学が発展し、フランスの法曹によって慣習法の研究が進むと共に註解学派に対する批判が生じ、ゲルマン法ともローマ法とも異なるフランス固有の法原理を確立しようとする試みがなされた。その結果、フランスでは、神聖ローマ帝国(ドイツ)とは反対にローマ法の影響力は低下していった。
その後、国王は、自らの法律制定権に基づき、1667年に「民事訴訟王令」(Ordonnance civile touchant la re´formation de la justice)、1670年に「刑事訴訟法令」(Ordonnance criminelle)という二つの手続法を制定し、また、1673年には「サヴァリ法典」と呼ばれる商事実体法である陸上商事王令を制定した。このことが後の近代法の整備に繋がっていく。
1679年、法学教育においてフランス語を公式に採用したサン=ジェルマン=アン=レーの勅令が発布され、フランス王国内の大学では、フランス法を教える学部と「フランス法教授」を必ず置くものとした。