フランス文化省
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フランス行政機関文化省
Ministere de la Culture
文化省が所在するパレ・ロワイヤル
役職
大臣フランク・リエステル(フランス語版、英語版)
概要
所在地パリ1区ヴァロワ通り3番地
パレ・ロワイヤル
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度51分52秒 東経2度20分15秒 / 北緯48.86444度 東経2.33750度 / 48.86444; 2.33750座標: 北緯48度51分52秒 東経2度20分15秒 / 北緯48.86444度 東経2.33750度 / 48.86444; 2.33750
定員1万928人[1](2013年度)
年間予算41億ユーロ(2022年度)
設置1959年2月3日[2]
改称名称の変遷を参照
ウェブサイト
Ministere de la Culture
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文化省(ぶんかしょう、フランス語: Ministere de la Culture)は、フランスの省のひとつ。1959年2月3日、シャルル・ド・ゴールにより文化省として設立された[2]。初代文化大臣はアンドレ・マルロー。フランスの文化行政を担当し、ボザール建築絵画彫刻版画)だけでなく、演劇舞踊文学映画オペラ、装飾芸術などの広範な芸術分野を管掌し、国内外で保護・振興策を推進している。また、国立博物館美術館公文書館・資料館、歴史的記念物、地域の文化会館を管理している。本庁舎は、パリパレ・ロワイヤルにある。
歴史・概要

元来、フランス王国ではルネサンス時代、イタリアブルゴーニュ公国などの宮廷に影響を受けて、芸術・文化を保護、後援する風潮があった。また、自国の芸術・文化の発展が国威高揚と直結するという概念が16世紀頃からフランスには見られるようになっていった。このような概念は、フランス革命以前、ブルボン王朝によるアンシャン・レジーム(旧体制)期にアカデミー・フランセーズや王立絵画彫刻アカデミーの創設やその他の芸術文化の保護という形で実際に目に見える形で実施されている。特にルイ14世及び国王の意を受けた財政総監ジャン=バティスト・コルベールの方針は、芸術の保護と国家の威信が結びついたものであり、国家による補助金やタペストリー工房の保護なども行われた。

このようなフランスの文化保護政策の伝統を現代に復活させたのが、シャルル・ド・ゴールである。1959年ド・ゴールは、初代文化相に小説家で、第二次世界大戦中、「自由フランス」で共にレジスタンス運動をしたアンドレ・マルローを任命した。マルローは文化相就任以前にド・ゴールの下で情報相などを務めており、ド・ゴールの唱える「偉大なフランス」に対して、文化への接近の民主化、すなわち、「文化の権利」(仏:droit a la culture)の概念を提唱するとともに、この概念を新たなフランス憲法世界人権宣言に盛り込むことで戦後フランスの威信を普く世界に発信しようとした。文化相としてのマルローは、国内各地に文化センターを設置し、文化活動を積極的に支援した。マルローは芸術に関しては概して保守的な嗜好であったが、モダンアートとアバンギャルドを理解しうる芸術的趣味の持ち主ではあった。

ド・ゴールに並び文化政策の重要性を認識していたのがフランソワ・ミッテランである。このミッテランの下で文化相を長らく務めたのがジャック・ラングである。ラング自身、Festival du Mondeを設立したプロデューサー、芸術監督を務めた人物であり、ジャズロックンロールラップストリートアートタギングなどの落書き漫画カートゥーン、 ファッションや食を含む広範な大衆文化を文化省の管轄として受け入れたのである。ラングの有名なフレーズに「経済と文化、それは戦いである economie et culture, meme combat」というものがある。これは「文化民主主義」と文化への積極的な国家の支援と関与、芸術制作への参加を代表する言葉となった。ラングの業績としては、音楽の祭典 Fete de la Musiqueの創設に加え、1989年フランス革命200周年記念式典の演出、監督、記念事業が挙げられる。ミッテラン自身、パリ大改造に並々ならぬ意欲を傾注し、ミッテランとラングによってパリ市内にはフランス国立図書館ルーヴル宮殿ガラスのピラミッド、アラブ研究所、オルセー美術館バスティーユ広場新オペラ座ラ・デファンス地区のグラン・アルシュラ・ヴィレット地区の科学や音楽の専門施設などが建設された。

ラングとともに近年の文化相経験者として特筆すべき人物の一人にジャック・ツーボン(トゥーボン)がいる。ツーボンは、ジャック・シラクの側近として台頭した若手政治家であったが、文化相在任中の1994年フランス語を言語として正確に保存する見地から関連諸法制(「ツーボン法」Toubon Law)を制定した。ツーボン法により、外来語(特に英語)の使用について、例えば広告における外国語文章の仏語訳や、ラジオ放送における歌謡曲の4割をフランス語の歌とするなど、一定の制限が課せられることになった。
名称の変遷

1959年2月3日: 文化省(Ministere des Affaires culturelles)

1974年1月: 文化・環境省(Ministere des Affaires culturelles et de l'Environnement)

1974年6月: 文化庁(Secretariat d'Etat a la Culture)

1976年: 文化・環境省(Ministere de la Culture et de l'Environnement)

1978年: 文化・通信省(Ministere de la Culture et de la Communication)

1981年: 文化省(Ministere de la Culture)

1986年: 文化・通信省(Ministere de la Culture et de la Communication)

1988年: 文化・通信・大規模公共事業・フランス革命二百周年省(Ministere de la Culture, de la Communication, des Grands travaux et du Bicentenaire)

1991年: 文化・通信省(Ministere de la Culture et de la Communication)

1992年: 国民教育・文化省(Ministere de l'Education nationale et de la Culture)

1993年: 文化・フランコフォニー省(Ministere de la Culture et de la Francophonie)

1995年: 文化省(Ministere de la Culture)

1997年: 文化・通信省(Ministere de la Culture et de la Communication)

2017年: 文化省(Ministere de la Culture)

大臣

現在のフィリップ内閣においては、フランソワーズ・ニセンが文化大臣を務めている。
歴代文化大臣

氏名職名内閣就任日退任日大統領
アンドレ・マルロー
Andre Malraux国務大臣ドブレ内閣1959年1月8日1959年7月22日シャルル・
ド・ゴール

文化担当国務大臣1959年7月22日1962年4月14日
第1次ポンピドゥー内閣1962年4月15日1962年11月28日
第2次ポンピドゥー内閣1962年12月6日1966年1月8日
第3次ポンピドゥー内閣1966年1月8日1967年4月1日
第4次ポンピドゥー内閣1967年4月7日1968年7月10日
クーヴ・ド・ミュルヴィル内閣1968年7月12日1969年6月20日
エドモン・ミシュレ
Edmond Micheletシャバン=デルマス内閣1969年6月22日1970年10月9日ジョルジュ・
ポンピドゥー

アンドレ・ベタンクール
Andre Bettencourt文化大臣(臨時代理)1970年10月19日1971年1月7日


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