(国旗)
国歌: ???? ??????(アラビア語)
祖国を守る者たちよ
フランス委任統治領シリア・レバノンの地図
公用語アラビア語、フランス語
首都ダマスカス
元首等
xxxx年 - xxxx年不明
変遷
フランス委任統治1920年
独立宣言1944年
独立承認1946年
現在 シリア
レバノン
トルコ
フランス委任統治領シリア(フランスいにんとうちりょうシリア、アラビア語:?????? ????? ??? ?????、フランス語:Mandat francais en Syrie)は、第一次世界大戦の結果1920年8月10日に締結されたセーヴル条約によりオスマン帝国からフランスの委任統治下にはいった領土である。当初はほぼ現在のシリア・アラブ共和国、レバノン共和国及びトルコ共和国のハタイ県を合わせた地域であった。
前史
オスマン帝国領シリア詳細は「オスマン帝国」および「en:Ottoman Syria
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OETA東部詳細は「en:Occupied Enemy Territory Administration」を参照
1918年11月に第一次世界大戦が終結すると、11月8日にいったんはイギリス、フランスともアラブの独立を支持した[1]。1918年11月23日には占領下のオスマン帝国領を統括する「占領下敵国領政庁(英語版)」(Occupied Enemy Territory Administration, OETA)を分割するという布告が発せられ、中東は3つのOETAに分割された。このうちフサイン・イブン・アリーの子でダマスカスに入城したファイサル・イブン・フサインの部下アリ・リザ・エル=リッカビがOETA東部(シリア内陸とトランスヨルダン)を統治し、フサイン・イブン・アリーの3男ファイサル・イブン・フサイン[2]を首班とするアラブ政府が成立した[1]。このアラブ政府は、シリアを基盤としたいファイサルによりシリア人を重用した構成となっていた[3]。これに対しフランスはシリアを自国の勢力範囲とみなしていて、シリア民衆の支持を得ようとしているアラブ政府を敵対視した[4]。また、フランスはサイクス・ピコ協定をもとにイギリスに対し、シリアにおけるフランスの権益を認めさせるため、協定中のフランス勢力圏の北東部モースル地方の権利放棄(モースル問題(英語版))とパレスチナにおけるイギリスの独占的地位を承認する取引をおこなった[5][* 1]。
1919年1月パリ講和会議にファイサルはフサインの代理として出席し、オスマン帝国領アラブ地域の民族自決の原則による独立と主権の承認を求めたが、フランスのシリアにおける権益確保の姿勢を崩すことは出来なかった[6][7]。