フランス君主一覧では、君主制時代のフランスの君主の一覧を示す。 フランスでは中世より1870年まで君主が支配した。フランスの支配者は主に王を名乗り、後にボナパルト朝では皇帝を名乗った。「フランス」の成立時期には複数の見解が存在する。もっとも早くに遡ろうとするならば、486年、クローヴィス1世によってローマ帝国のガリアにおける軍司令官シアグリウスが倒され、 メロヴィング朝フランク王国が成立した時となるだろう。フランク王国は8世紀に分裂する。ヴェルダン条約により、843年西フランク王国が成立する。西フランク王国の支配域が、おおよそ今日のフランスへと展開していくこととなる。 この観点から、この表は843年、西フランク王国のシャルル2世即位より開始している。それ以前のフランクの君主についてはフランク王の一覧を参照。 以下の表に掲載した以外に、1340年から1360年および1369年から1801年にかけては、イングランド王およびグレートブリテン王もフランス王の称号を自称した。ごく短い期間ではあるが、この称号が実際に一定の根拠を持っていた時期もある。すなわち、1420年のトロワ条約によりシャルル6世はその義子イングランド王ヘンリー5世を摂政および継承者として認めたのである。ヘンリー5世がシャルル6世に先立ったため、ヘンリー5世の子ヘンリー6世は祖父シャルル6世からフランス王の称号を継承した。北フランスの大部分は1435年までイングランドの支配下にあったが、1453年までにイングランドはカレー(およびチャンネル諸島)を除いたフランス全土から敗退し、カレーも1558年にフランスの手に落ちた。しかしながらイングランド王、のちグレートブリテン王は1801年のグレートブリテンおよびアイルランド連合王国成立までフランス王を自称し続けた。1337年から1422年の間にも、断続的に複数のイングランド王がフランス王を自称している。 君主号としては、フィリップ4世までは「フランクの王」(ラテン語: Rex Francorum)が用いられた。ナバラ王国の王位を兼ねたカペー朝末期(フィリップ4世以降)およびブルボン朝歴代の国王は「フランスとナバラの王」(roi de France et de Navarre)を称した。1791年憲法が効力を有した短い期間(1791年から1792年)および1830年の7月革命後には「フランスの王」(roi de France)ではなく「フランス人の王」(roi des Francais)が用いられた。ボナパルト家の君主ナポレオン1世、2世、3世は「フランス人の皇帝」(empereur des Francais)を使用した。
概説
やがてメロヴィング朝はカロリング朝に取って代わられる。カロリング家は始めアウストラシアの宮宰であったが、徐々に統合を進め、クロヴィス以来のフランク王国全土統合を成し遂げた。ピピン3世が王として即位することでメロヴィング朝は完全に終わる。小ピピンの子シャルルマーニュの広大な支配域は、ルイ1世により分割される。ルイ敬虔王の子ロタール1世の治世下、843年にフランク王国は東フランク王国、ロタリンギア、西フランク王国へと分割された。シャルル2世は西フランク王国の最初の王である。 ウード、ロベール1世、ラウールはカロリング家ではなく、対立するロベール家の王である。カペー朝を興したユーグ・カペーはロベール1世の孫である。 肖像名在位期間先代との関係 (肥満王)
カロリング朝(843年 - 987年)
シャルル2世
(Charles II)843年877年10月6日 • シャルル1世(大帝)の孫、ルイ1世の子
ルイ2世
(Louis II)877年10月6日879年4月10日 • シャルル2世の子
ルイ3世
(Louis III)879年4月10日882年8月5日 • ルイ2世の子
カルロマン
(Carloman II)879年4月10日884年12月6日 • ルイ2世の子
カール3世
(Charles le Gros)885年888年1月13日 • ルイ1世の孫、東フランク国王ルートヴィヒ2世の子
ウード
(Eudes)888年2月29日898年1月1日 • ロベール豪胆公の子
シャルル3世
(Charles III)898年1月1日922年6月30日 • ルイ2世の没後に生まれた子
• ルイ3世・カロルマン2世の異母弟
ロベール1世
(Robert I)922年6月30日923年6月15日 • ロベール豪胆公の子
• ウードの弟
ラウール
(Raoul)923年7月13日936年1月14日 • ロベール1世の義子
ルイ4世
(Louis IV)936年6月19日954年9月10日 • シャルル3世の子
ロテール
(Lothaire)954年11月12日986年3月2日 • ルイ4世の子
ルイ5世