フランス共産党
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フランス政党フランス共産党
Parti communiste francais

フランス共産党本部(オスカー・ニーマイヤー設計)
全国書記ファビアン・ルーセル(フランス語版)
成立年月日1920年12月
前身政党フランス社会党(SFIO)[1]
本部所在地 フランスパリ10区
国民議会議席数19 / 343   (6%)(2017年6月18日)
元老院議席数10 / 577   (2%)(2012年9月23日現在)
党員・党友数20,000人[2](2017年)
政治的思想・立場極左(1927年以降[3]
左派(1977年以降[4]
共産主義[5][6]
ユーロコミュニズム[7][3]
機関紙ユマニテ
国際組織欧州左翼党
公式サイト ⇒PCF homepage
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フランス共産党(フランスきょうさんとう、フランス語: Parti communiste francais、略称: PCF)は、1920年に結成されたフランスの政党

前身のフランス社会党(労働インターナショナル・フランス支部、SFIO)が1920年12月のトゥール党大会においてコミンテルン(第三インターナショナル)への加盟を決議し、党名を「共産主義インターナショナル・フランス支部」(フランス語: Section francaise de l'Internationale communiste、SFIC)に改称し(加盟に反対した少数派は SFIO として活動を継続)[8][9][10]、翌1921年に「社会党 SFIC(Parti socialiste SFIC)」、1943年にコミンテルンが解散した際に現在の「フランス共産党」に改称した[11]

マルクス・レーニン主義を掲げ、パブロ・ピカソエリック・サティイヴ・モンタンシモーヌ・シニョレらも党員だった時期がある。
歴史

フランス共産党は、コミンテルンのフランス支部として活動し、スターリンがコミンテルンを実質支配した1930年に「左翼反対派」を追放してモーリス・トレーズが実権を握って以降、コミンテルンが解散した戦後においても各国の共産党に比べても際立ってソ連の政策を支持する傾向が強く、モスクワの長女 (La fille ainee de Moscou) と揶揄された。その傾向は1991年ソビエト連邦の崩壊まで続いた。
人民戦線からレジスタンスまで

フランス共産党は1930年代初頭、スターリンとコミンテルンが提唱した「社会ファシズム論」を実践してフランス社会党 (SFIO)に激しい攻撃を加えたが、1933年ドイツナチス政権を獲ると、フランスでもファシズム運動が起こっていたことから労働者の間で「反ファシズム統一戦線」の気運が高まった。その気運は2月6日に起こった「火の十字団」「王党派青年団」「愛国青年団」「フランス連盟」などの極右・ファシスト組織が合同してコンコルド広場からエリゼ宮に進撃した武装デモをきっかけに、ファシズムに対抗する統一戦線としての人民戦線運動として結実し、1936年にはフランス人民戦線政府が樹立された。1965年にソビエト連邦で発行されたモーリス・トレーズ書記長を描いた切手。

フランス共産党も人民戦線運動に貢献したが、入閣せず閣外協力の形でこの政府に協力した。したがって、フランス共産党はこの政府に協力するために労働者のストライキ運動を「権利獲得運動」の枠内に抑制した。1936年5月27日に社会党左派のマルソー・ピヴェールが、ストライキ運動の広がりに革命まで展望して「いまや、すべてが可能である」と社会党機関紙『ポピュレール』にて表現したことに対し、フランス共産党書記長であるモーリス・トレーズは、農民と中産階級の支持が充分でない、として「すべてが可能なわけじゃない。権利闘争は終わらせる術を知らなくてはならない」と6月11日の共産党活動家集会で反論した。このようなフランス共産党の「社会ファシズム論」から「人民戦線」への転換は、ナチスの軍事的脅威からソ連邦を守り、かつヨーロッパにおけるトロツキズムの高揚を怖れたヨシフ・スターリンの意向が働いている。

1937年6月にレオン・ブルム首相の辞職によって人民戦線政府が崩壊し、1939年にスターリンがナチス・ドイツヒトラー独ソ不可侵条約を締結すると、フランス共産党は一転して「反ファシズム」ではなく、「フランス帝国主義およびアメリカイギリス帝国主義反対」を強く打ち出すようになる。独ソ不可侵条約を支持したことで、党員の三分の一が反発して離脱し、政府から「利敵団体」と規定されて非合法化される。1940年ナチス・ドイツによるフランス侵攻という段階に至っても、(のちに捏造される伝説とは違って)秘密地下組織となったフランス共産党は反ナチ・レジスタンス運動を開始するどころか、モスクワからの意向に従い兵器工場でのサボタージュを労働者に呼びかけ、いくつかの工場をテロによって破壊した。フランス敗北後は、当初は合法政党化を期待して占領当局に機関紙『ユマニテ』の発行を請願し(指導者のジャック・デュクロは回想録でこのことを認めている)、アナーキストやトロツキストの名簿をナチスに渡したりしている。ジャック・ドリオやジャン・フォントノワなどのように共産党から転向した者も少なからず存在した。

1941年ナチス・ドイツのソ連侵攻によって、フランス共産党も武装してレジスタンス運動を開始する。当時、すでに「地下組織」であったことから、武装闘争への転換はスムーズに行われた。フランス共産党のレジスタンス活動は「ドイツ兵を一兵でも多くソ連から引き離せ」というスターリンの指令によって、その開始の当初からナチ将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用する。それに対するナチス側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めたことから、フランス共産党は「銃殺を恐れぬ党」としてフランス社会で権威を取り戻すことになる。また、フランス共産党は、「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ド・ゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調した。あるいは、レジスタンスの大衆組織として「国民戦線」(現在のルペンらの同名組織とはまったく無関係)を結成し、主に中産階級の取り込みを図った。以降、「愛国主義」は、フランス共産党の強烈なアイデンティティーとなった。

1944年にナチスを放逐した国民的なレジスタンス運動は、共産党の権威の高まりとあいまって「ブルジョアジーすら社会主義を希求する」と言われたような状況を現出させる。しかし、モスクワに亡命していたフランス共産党の指導者モーリス・トレーズは帰国するなりレジスタンスの武装解除を命じ、資本主義体制再建に協力することになる。


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