フランス・ルネサンスの文学
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ルネサンス期の代表的枠物語『エプタメロン』の一場面.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

フランス・ルネサンスの文学では、フランスにおけるルネサンス期、すなわちイタリア戦争開始(1494年)頃からユグノー戦争終結(1598年)頃までのフランス文学について扱う。時期区分から明らかなように、本記事は実質的に16世紀フランス文学を対象とするに等しい。

なお、「フランス文学」は、「フランス語で書かれた文学」と、「フランス人によって書かれた(ラテン語作品なども含む)文学」の2通りの意味があるが、ここでは前者を基軸としつつ、ラテン語作品などにも一定の配慮をするものとする(ちなみに前者は、スイスや現ベネルクス領内で刊行されたものも含む)。
概要

16世紀初頭までのフランス文学は、であれ、物語であれ、中世までの伝統の継承という特色を強く示していた。しかし、人文主義ネオプラトニズムに特徴付けられるイタリア・ルネサンスの影響が、イタリア戦争やカトリーヌ・ド・メディシスのフランス王家への嫁入りなどによって、フランス国内に持ち込まれるようになると、文学の傾向にも根底からの変化が促されるようになった。

詩の分野で大きな影響を及ぼしたのは、ペトラルカの作品である。恋愛を主たるテーマとしたそのテーマ設定やスタイルもさることながら、それをイタリア語で歌い上げたことは、貴族的な文学にもラテン語ではなくフランス語を用いようとするプレイヤード派などにも影響を与えた。

物語の領域では、ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』の影響が強かった。この時期のフランス短編小説の傑作『エプタメロン』は、デカメロンの枠物語の形式を模倣したものである。

劇作品についても、イタリアの悲劇喜劇の翻訳が当時大変にもてはやされ、17世紀に本格化するフランス演劇の勃興にも大きく寄与した。
フランス文学と出版

16世紀には、活版印刷の本格化が、文学の発展と普及にも貢献した。

古代ギリシャローマの文学に接しやすくなったことは、フランス文学の方向性に影響を与えた。さらに同時代の他国の文学作品の翻訳も多く出版され、それらの模倣や翻案もまた、フランス文学の発展に寄与した。また、世紀後半になると、青本の出版も始まり、簡素なものではあったが、一般大衆にとっての活字世界への入り口として機能した。

パリの出版業者の中では、エチエンヌ家が重要な存在であった。その一人、ロベール・エチエンヌは、聖書を初めて章と節に分けて出版した。弟のシャルルは、エチエンヌ・ド・ラ・リヴィエールとともに、図解された解剖学書を出版した。ロベールの息子のアンリは、出版事業の傍ら自身でもフランス語の語彙に関する研究を複数著した。

また、リヨンでは、セバスチャン・グリフやジャン・ド・トゥルヌらが、様々な作家の著書を世に送り、リヨンを文学の一大拠点とすることに貢献した。

伝統的な詩法とイタリア文化の影響

フランス・ルネサンス黎明期の詩は、15世紀以来の伝統、すなわちよく練られた韻律上・描写上の試みや、練達な言葉遊びによって特徴付けられる。この担い手となったのは、ジャン・ルメール・ド・ベルジュやジャン・モリネら北部の詩人たちであり、彼らは「グラン・レトリクール」と呼ばれた。クレマン・マロ

しかし、こうした伝統は、主としてイタリアから様々な動きが流入したことで、根底から揺り動かされた。その動きとは、理想化された恋人に捧げられたソネット集などに特徴付けられるペトラルカの衝撃、ルイージ・アラマンニのようにフランス宮廷で活動したイタリア詩人たちの影響、フィチーノらによるネオプラトニズム人文主義、そしてピンダロスアナクレオンといった古代ギリシャ詩人たちの再発見などである。クレマン・マロやメラン・ド・サン=ジュレはフランス詩にソネットを持ち込んだとされるが、上記の諸要素に照らした場合、まだまだ伝統的な形式からの借用が多かったといえる。

新たな動きを最初に十全に取り入れたのは、ジャック・ペルチエ・デュ・マンである。彼は1541年にホラティウスの『アルス・ポエティカ(詩法論)』をフランス語訳した人物であり、1547年にはアンソロジー『詩篇集』を纏めている。ここには、ホメロスの『オデュッセイア』の最初の2篇、ウェルギリウスの『ゲオルギカ』の第一の書、ペトラルカの12篇のソネットホラティウスの3篇のオードマルティアリス式の風刺詩が含まれており、上記の新たな動きを十分に意識していることが明白である。この著書は、2人の若手詩人の詩を最初に公刊したことでも知られている。その2人とは、ロンサールデュ・ベレーである。
プレイヤード派

16世紀半ばに、ロンサール、デュ・ベレー、バイフらコレージュ・ド・コクレで学んだ若手詩人たちが、新たなグループを形成した。今日、このグループは(そうした呼称になお議論の余地はあるものの)プレイヤード派として知られている。彼らの文学的試みは、デュ・ベレーの名で発表された宣言書『フランス語の擁護と顕揚』(1549年)に見ることができる。そこでは、フランス語は(ペトラルカやダンテにとってのトスカーナ語のように)文学表現に値する言葉であることが主張され、ラテン語やギリシャ語の模倣も含め、フランス語の文学的・言語的な生産と精錬を行っていくことが宣布された。
ピエール・ド・ロンサールピエール・ド・ロンサール

ロンサールはプレイヤード派の中心であると同時にフランス・ルネサンス期を代表する詩人である。彼は『オード集』『恋愛詩集』などによって、今なお高く評価されている。

彼は、ウェルギリウスやホメロスを手本に、『フランシアード』と題したフランス王家の起源を歌った長編叙事詩を執筆したこともあった。しかし、この試みは失敗作と見なされている。
ジョアシャン・デュ・ベレー

デュ・ベレーは、ロンサールと並ぶプレイヤード派の中心人物であった。1550年代のローマでの長期滞在が、彼の作詩に大きく影響した。彼がローマに抱いていた憧憬は、廃墟と退廃しか見いだせなかったこの滞在によって打ち砕かれたが、その経験は、1558年の3作品、すなわち『ローマの古跡』『哀惜詩集』『夢』に結びついたからである。
ジャック・ペルチエ・デュ・マン

既に見たように、ペルチエ・デュ・マンは、イタリアからの新動向の摂取などに功があったが、彼は後に自身の作詩の代表作である『愛の中の愛』を著した。これは、流星や諸天体などを歌い上げた百科事典的な詩集であり、バイフやデュ・バルタスへの影響が指摘されている。
プレイヤード派の他の詩人

バイフらは、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語などの詩の律格をフランス語に取り入れようと試みた。
詩と預言

ポンチュス・ド・チヤールに顕著であったように、プレイヤード派の幾人かにとっては、作詩それ自体が預言神託の一形態、あるいは恋愛的情熱、預言的熱狂、酩酊などにも似た詩神の憑依と見なされていた。
詩の表現形態とテーマ

この時期に支配的だった表現形態は、ペトラルカ的なソネットやホラティウス/アナクレオン的なオードであった。ロンサールもまた、早くからピンダロス的なオードをフランス語で受容しようとした。

詩には神話が歌い込まれることがしばしばであったが、それ以上に自然の世界が歌い上げられることが多かった。


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