フランスにおける死刑
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この項目では、フランスにおける死刑(フランスにおけるしけい)について記述する。

フランスでは死刑が、中世時代から公式に存在していたが、1981年に廃止された。フランス革命以来、ギロチンが唯一の死刑執行方法とされた。
歴史

1790年にマクシミリアン・ロベスピエールが死刑制度廃止を議会で投票にかけたが否決された。これがフランスの歴史上最初の死刑廃止法案だったと言われているが、皮肉にもマクシミリアン・ロベスピエール自身が後に方針を転換して恐怖政治による死刑の乱発を行うことになった。

1791年6月3日に立法院刑法第3条が改訂され、残酷な死刑の禁止が初めて法制度化された。これによって八つ裂きの刑車裂きの刑絞首刑などの残酷な処刑方法はすべて禁止となり、死刑は人道的にギロチンのみで行うことになった。これ以降、死刑制度廃止までギロチンが使用されるようになり、他の国でも人道的な死刑執行方法としてギロチンが採用されていく。

フランスは、西欧諸国でも死刑執行に熱心であり、現在では忌諱される公開処刑1939年まで継続していた。19世紀中頃から、処刑される時刻は、午後3時から、朝、そして夜明け前というように変遷した。処刑は市場の広場のような公共の場で実行されたが、徐々に刑務所の処刑場に変更された。なおフランス革命以来、死刑執行方法はギロチンが廃止まで使用されていた。最後の公開処刑はヴェルサイユの聖ピエール刑務所で、1939年6月17日に6人を殺害した死刑囚に執行されたのが最後であった。この時の処刑の写真は新聞で発表されている。

なおフランスでは死刑執行人ムッシュ・ド・パリ(本来はパリのみ)が執り行うことになっていたが、1870年11月以降は死刑執行人がフランス全土で1人だけになった。また死刑執行人の氏名は公開されており、プライバシーの観念が薄かった時代には、死刑執行人の家系図から履歴書までマスコミで暴露されたこともあった。このため、死刑執行人の家族や親族が自殺した事例も多い。これは死刑執行人はフランスにおいては偏見と侮蔑の目で見られ、決して名誉とされないなど社会的評価が低く、他の職業転職することが出来ないうえに、政府の経費削減のため僅かな固定給しか支給されず(第二次世界大戦後は年間6万フラン)、工員という副業をしなければ生活できないなど経済的に恵まれたものでなかったためである。

戦後長く死刑執行人として勤めたアンドレ・オブレヒトは、アルジェリア民族解放戦線19人の死刑を執行した1960年に「副業」の工場労働者としての休暇を使い切ったため、法務省の役人に頼んで会社経営者を説得してもらったが、結局は会社を辞めて死刑執行業務をしたというエピソードがある。

ナチス占領下にあった当時、反独闘争を行うレジスタンス運動などに対し死刑適用が濫発された結果、19世紀以来なかった女性に対する処刑を含め執行数が増加し、3,827人の処刑(内、銃殺刑は3,676人、ギロチンは151人)が執行されているが[1][2]、これは1870年から1977年までのフランスでの一般刑法犯の処刑件数よりも多い数字だという。

そのためか、フランスでは死刑執行が戦後大幅に減少していった。1960年を除けば死刑執行数は年に数人で、執行が行われない年もあった。また1969年から1974年の間に在職したジョルジュ・ポンピドゥー大統領の時代には、一部を除き死刑囚を恩赦していた。最後の処刑は最後の死刑執行人であるマルセル・シュヴァリエの手で1977年9月10日に執行された。

1981年に就任した社会党フランソワ・ミッテラン大統領(当時)が「私は良心の底から死刑に反対する」と公約し当選。弁護士ロベール・バダンテールを法務大臣に登用し、「世論の理解を待っていたのでは遅すぎる」と死刑廃止を提案。国民議会の4分の3の支持を得て決定した。西ヨーロッパで最後の死刑廃止国となった。世論調査機関TNSソフレスによる、死刑制度廃止当時の世論調査では、死刑制度の存続を求める声は62パーセントを占めていた[3]

1985年12月20日に、フランスは人権と基本的自由の保護のための条約の第6追加議定書[4]を批准し、戦時以外にフランスが死刑を復活することはないことを意味するものであった。また2002年5月3日に、フランスと30カ国は同条約の第13追加議定書に署名し、戦時も含めあらゆる状況における死刑を禁じるものであった。2003年7月1日に実施された。

2006年9月18日にソフレスが発表した世論調査によると、「死刑廃止25周年」を迎えて、52パーセントが「死刑制度復活反対」と答え、「死刑制度復活」を望む意見は42パーセントであった。支持政党別で、死刑復活賛成は、右派政党の国民戦線支持層で89%。与党国民運動連合(UMP)で60%。社会党支持層は賛成は30%となった。若齢、高学歴者ほど死刑復活反対の傾向が強かった[5]。ただし、フランスの政治家で死刑制度復活を公言しているのは国民戦線指導者のジャン=マリー・ル・ペンなど少数であるうえに、死刑制度を廃止する国際条約に批准しているため、事実上不可能となっている。

2004年には、国民議会に悪質なテロ行為に対する死刑を復活させる1512号法案が提出されたが、成立することは無かった。2006年1月3日には、ジャック・シラク大統領(当時)が死刑を禁止する憲法の改正を発表した。

2007年2月19日にフランス国会は圧倒的多数の賛成で憲法修正案を可決した(賛成828票、反対26票)。そのため憲法に死刑の廃止が明記された。
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フランス語では死刑執行人のことを「Bourreau」(ブロー)と呼んでいる。シャルル=アンリ・サンソンの請願によりフランスの死刑執行人の正式名称は1787年1月12日に「Executeur de Jugements Criminels」(エグゼキュトゥル・ド・ジュジュマン・クリミネル)、日本語に訳すと「有罪判決の執行者」と改名され、「Bourreau」と呼ぶことが法的に禁止された。しかし、一般的にフランス語では死刑執行人と言えば現在でも「Bourreau」で通用しており、正式名称は公文書などでしか使用されていないのが実情である。

フランス革命物の『ダルタニャン物語』『アン・ブーリン』など物語に登場することもあり、その場合は「首切り役人」と日本語訳されていることが多い。

首都であるパリの処刑人はムッシュ・ド・パリ(Monsieur de Paris)の称号で呼ばれ、フランス全土に160人いる死刑執行人の頭領になっていた。その後ギロチンの導入で省力化が進んだ結果、1870年11月以降は死刑執行人がフランス全土で1人になり、ムッシュ・ド・パリは事実上、死刑執行人の称号となった。

フランスの死刑執行人は社会的にも経済的にも恵まれていなかった。サンソン家医師としての副業でそれなりに資産を築いていたが、経済的に困窮したことも多かった。社会的にも偏見と侮蔑の目で見られ、決して名誉とされることはなかった。人権宣言を掲げたフランス革命後においても、彼らに市民権が与えられる事は無かった。経済的には政府から給金を与えられていたが十分な額とは言えず、結局のところ、シャルル・サンソン・ド・ロンヴァルからマルセル・シュヴァリエまで300年余り、副業をして生計を支えていた。

特に第二次世界大戦後の死刑執行人は貧しく、副業として工場の工員などを兼務していた。アンドレ・オブレヒトは年間の死刑執行が19人にもなった年など、副業であった工場労働者としての休暇を使いきってしまい、法務省の役人に頼んで勤務する会社の経営者を説得してもらったが、結局は会社を辞めてまで死刑を執行したという逸話があるほどである。

フランスではギロチンが導入される以前の死刑には絞首刑斬首刑火炙りの刑車裂きの刑八つ裂きの刑が存在していた。


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