フランシス・ピアポント
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アメリカ合衆国政治家フランシス・ハリソン・ピアポントFrancis Harrison Pierpont

生年月日1814年1月25日
出生地ウェストバージニア州(当時はバージニア州)モーガンタウン
没年月日1899年3月24日
死没地ペンシルベニア州ピッツバーグ
出身校アレゲーニー・カレッジ
所属政党共和党
配偶者ジュリア・オーガスター・ロバートソン
バージニア州知事
当選回数1
在任期間1865年 - 1868年
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フランシス・ハリソン・ピアポント(英:Francis Harrison Pierpont、1814年1月25日-1899年3月24日)は、ウェストバージニア州の父と呼ばれるアメリカ合衆国弁護士政治家であり、南北戦争のときに北軍が支配していたバージニア州の部分の知事を務めた。ウェストバージニア州はその歴史における重要さを認めて、1910年にワシントンD.C.アメリカ合衆国議会議事堂国立彫像ホール・コレクションに、州としては2つ目の彫像となるピアポントの大理石像を寄贈した[1]
初期の経歴

ピアポントはウェストバージニア州(当時はバージニア州)モーガンタウン近くで、そこの設立者であるザッキル・モーガンの近親として生まれ、現在のウェストバージニア州マリオン郡、当時はバージニア州西部で成長し、その人生の大半を地域の歴史に結びつけることになった[2]。アレゲーニー・カレッジを卒業し、法律を勉強しながらバージニア州とミシシッピ州で学校の教師をした。1841年に法廷弁護士として認められ、1848年にはボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のための地元の弁護士となった。政界に入る前にフェアモント州立大学の前身であるフェアモント男子女子神学校設立を手伝った[2]
政歴
南北戦争

ピアポントはエイブラハム・リンカーンの積極的な支持者であり、合衆国からバージニア州が脱退することの遠慮の無い反対者として政治により関わるようになった。バージニア州が脱退し戦争になったとき、アメリカ連合国への加入を拒んだバージニア州北部と北西部の郡からの代議員がホイーリング会議に集結した[2]。これらの郡は最終的にその選出された役人が職を放棄してホイーリングに別の政府を設立し、ピアポントを暫定知事とすることを宣言した。この「復活バージニア州政府」は新しいバージニア憲法を起草し、アメリカ合衆国議会に代議員を送った[1]。1862年、ピアポントは、ペンシルベニア州知事アンドリュー・グレグ・カーティンが組織し、ペンシルベニア州アルトゥーナで開催されたタカ派知事会議に出席した。この会議は最終的にエイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言北軍の戦争遂行努力を支持した。

ピアポントの指導の下でホイーリングの政府は新しい別の州を創設することを問う住民投票を要求した。住民は圧倒的にこれを支持し、アメリカ合衆国議会に州創設の申請が行われ承認された[3]。新しい州は名前をウェストバージニア州とし、1863年にアメリカ合衆国に加盟を認められた。アーサー・I・ボアマンがウェストバージニア州の知事に選出されたとき、ピアポントは北軍によって占領されたバージニア州北部の数郡から構成される「復活された」バージニア州の知事になった[1]。復活されたバージニア州の州とはアレクサンドリアに設定され、南北戦争の残り期間続いた。

1865年に南北戦争が終わると、アンドリュー・ジョンソン大統領は再統合されたバージニア州の暫定知事にピアポントを指名し、州都はリッチモンドに戻された[4]
レコンストラクション

ピアポントはアメリカ連合国の軍部と政府に仕えた政治家達に対し寛容の政策を採った。バージニア州政府は元南軍の者達にその失われた特権を回復させる法を成立させ始めたので、元北軍の共和党員の大半には不満だった。戦後、南部は次第にレコンストラクション政策に抵抗するようになり、アメリカ合衆国議会は1867年の軍事レコンストラクション法を成立させた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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