フランシス・ハイド・イイ・ブラウン
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フランシス・ハイド・イイ・ブラウン(Francis Hyde ???? Brown, 1892年9月16日[1][2] - 1976年7月24日[2])は、ハワイ政治家フィランソロピスト・スポーツ選手[3]。大首長だった祖父を持つハワイの名家の出身。多くのスポーツに通じたが、特にゴルフにおける活躍が知られ[2][注釈 1]、ハワイにゴルフを根付かせた立役者とも言われる。リゾート地として知られるマウナ・ラニの旧所有者でもある。
生涯

祖父は、ハワイのアリイ(Ali?i, 大首長)の一人であったジョン・パパ・イイ(英語版)[1](1800年 - 1870年)。ジョン・パパ・イイは、ハワイ王国の重職を歴任するとともに、ハワイの歴史書 Fragments of Hawaiian History の著者としても知られる[1]。フランシスの母のイレーネ・カヘレラウコア・イイ(英語版)(1869年 - 1922年)は[1]、ジョン・パパ・イイの子で唯一成長した人物であり、社会事業家(フィランソロピスト)として知られた[1]

1892年、フランシス・ハイド・イイ・ブラウン(以下、フランシス)は、ホノルルにおいて、イレーネと最初の夫であるチャールズ・A・ブラウン (Charles A. Brown) との間に、二男として生まれた[1]。なお、1898年にイレーネはブラウン氏に離婚を突きつけ(女性から離婚を切り出すのは当時珍しいとされた)[1]、のちカール・S・ホロウェイ (Carl S. Holloway) と再婚した。フランシスは、プナホウ・スクールに通ったのち[1]、マサチューセッツ州のフェッセンデン・スクールに学んだ[1]

第一次世界大戦中には陸軍に召集された。救急車の運転手 (ambulance driver) を務めていたという[1]

戦後はハワイに戻った[1]。1925年、ハワイ準州議会の下院議員に選出される[1]。1927年からはハワイ準州議会の上院議員 (Hawaii Senate) となり、1947年まで務めた。

1933年に自動車事故に遭い、辛くも生還した[4]。医者が「二度とゴルフはできないだろう」と言うほどの重傷であったが[2]、16か月後、1934年のマノアカップで優勝を果たした[2]。このマノアカップ優勝をもって、ゴルフを引退している[4]

1936年、ハワイ島西海岸のケアワイキ・ベイ(英語版)に面したカラフイプア (Kalahuipua?a) にコテージ[注釈 2]と広大な地所を取得し、著名なフラダンサーであったウィノナ・ラブ (Winona Love) と生活した[1]

1964年、東京オリンピックに参加したフランシスは、東急五島昇と友人となり、五島をカラフイプアに招待した[1]。こうした中で、世界各国の富裕層が集まりゴルフを楽しむリゾート地を作る構想が語られたという[1]


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