フランシス・ドレーク
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フランク・ドレイク」とは別人です。

フランシス・ドレーク
1543年頃 - 1596年1月28日

渾名エル・ドラケ(El Draque)
ドラコ(Draco)
生誕 イングランド デヴォンタヴィストック
軍歴1580年 - 1596年
最終階級イギリス海軍中将
戦闘アルマダ海戦
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サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake、1543年頃 - 1596年1月28日)は、エリザベス朝イングランドゲール系ウェールズ人航海者、海賊私掠船船長)、海軍提督。イングランド人として初めて世界一周を達成[1]

ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から)。
生涯
生い立ち

フランシス・ドレークは、1543年の2月か3月に南イングランド、デヴォンタビストック(Tavistock)で、プロテスタントの農民で後に牧師となったエドマンド・ドレーク(Edmund Drake)とメアリ・ミルウェイ(Mary Mylwaye)の間に、12人息子の長男として生まれた。

10歳を過ぎたころには、近所に住む老船長のもとで航海に従事していた。老船長にその働きぶりが認められ船を譲り受けたが、ドレークはその船を売りさらなる旅に出た。
奴隷貿易の船長?海賊に

いとこであるジョン・ホーキンスの下で奴隷貿易に従事していたが、1568年、自ら船を調達して船長となった。その後もジョン・ホーキンスの船団に参加していたが、ベラクルスサン・フアン・デ・ウルアにてスペイン海軍の奇襲を受け、船団はほぼ壊滅状態となった。ドレークは命からがら逃げ延びてイギリスに帰還した。この経験は、ドレークに生涯にわたるスペインに対する復讐心を抱かせることになった[2]

1569年、メアリ・ニューマン(Mary Newman)と結婚した。メアリは12年後に亡くなった。

1570年以降、西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を開始。1573年にはパナマからノンブレ・デ・ディオスに金銀を運ぶラバ隊を襲撃して、大量の財宝を手に入れた。
世界一周の偉業

1577年12月13日、排水量約300tのガレオン船ゴールデン・ハインド号を旗艦とする5隻の艦隊で、プリマス港を出航。フランシス・ドレークの航路

大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪う。 その中にはスペイン王の財宝を満載したカカフエゴ号などが含まれる。カカフエゴ号には26t、80ポンド貨幣と装飾品13箱など合計20万ポンド相当が積載されていたとされる。

途中のサン・フリアンにて、遠征出航の功労者で親交の深かったトーマス・ドウティを、6月30日に自ら裁判長として軍事裁判にて反逆罪として処刑した。遺体は丁重に埋葬されたという。

その後、太平洋を横断してモルッカ諸島に、さらにインド洋から喜望峰を回って、イギリスへと帰国し、フェルディナンド・マゼランに続く史上二番目の世界一周を達成した。この途中、1578年にホーン岬ドレーク海峡を発見している。

1580年9月に、生き残ったゴールデン・ハインド号のみがプリマス港に帰港し、女王エリザベス1世を含む出資者達に4700%とも言われる配当金を支払った[3]。イングランド王室の取り分は30万ポンドを越え、これは当時の歳入(20万ポンド程度)よりも多く、この臨時収入により王室は溜まっていた債務を全て清算できたうえに、国策会社のレヴァント会社に増資することができ、これは後の東インド会社設立の基礎となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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