フランシス・ウイメット
[Wikipedia|▼Menu]

 {{{名前}}} 基本情報
配偶者Stella Sullivan (m. 1918⁠–⁠1965)
子供Janice, Barbara
経歴
statusAmateur
プロ勝利数3
メジャー選手権最高成績
(優勝: 3)
マスターズWD: 1941
PGA選手権DNP
全米オープンWon: 1913
全英オープンT56: 1914
全米アマWon: 1914, 1931
全英アマT3: 1923
受賞
世界ゴルフ殿堂1974 ( ⇒member page)
Bob Jones Award1955
テンプレートを表示
1913年全米オープンのウイメット プレーオフ参加者 左からハリー・バードン、ウィメット、テッド・レイ 肩に白いタオルを巻いた10歳のキャディ、エディ・ロワリーとの勝利を祝うウイメット(後方中央)

フランシス・デサール・ウィメット(Francis DeSales Ouimet、1893年5月8日 - 1967年9月2日)は、米国人アマチュアゴルファーで、しばしば「アマチュアゴルフの父」と呼ばれる。1913年に全米オープンで優勝し、また、セントアンドリュースのロイヤルアンドエンシェントゴルフクラブ (R&A) のキャプテンに英国人以外から初めて選出された。1974年に世界ゴルフ殿堂入りした[1][2]目次

1 若年期

2 ゴルフ歴

2.1 1913年全米オープン

2.2 論争解決

2.3 後年の成果


3 フランシスウイメット奨学基金

4 描写

5 私生活

6 トーナメント勝利(27勝)

7 メジャー大会(3勝)

7.1 プロの勝利(1)

7.2 アマチュアとしての勝利(2勝)

7.3 結果のタイムライン

7.4 概要


8 米国代表チームでの出場数

9 参考文献

10 参照資料

10.1 脚注

10.2 一般的な参考文献


11 外部リンク

若年期

マサチューセッツ州ボストンの南西にあるブルックラインでフランス系カナダ人移民の父アーサー・ウィメットとアイルランド移民の末裔である母メアリー・エレン・バークの間に生まれた。4歳の時、ザカントリークラブ (The Country Club) の17番ホールの真向かいにあるクライドストリートに家族が家を購入し、そこに引っ越した。ウィメット家は最貧層に近い階層に属していて、そのころの米国ではゴルフをプレーするのは難しかった。当時は一般に、アマチュアゴルフは富裕層の贅沢な趣味であり、一方でプロゴルフは元キャディーらに競技の場と収入をもたらすものと考えられていた。実際、USGA はアマチュアという身分資格要件として16歳以降でキャディをすることを禁じており、これに違反するとアマチュア資格をはく奪された[3]

ウィメットは幼い頃からゴルフに興味を持ち、11歳でザカントリークラブのキャディを始めた。兄がくれたクラブセットと、コースで見つけたボールを使って、独学でゴルフを習得し、上達した。たちまち多くのクラブメンバーやキャディーマスターのダン・マクナマラの目に留まることになった。ハイスクール低学年の時、父から、学校を中退して人生でもっと「役に立つこと」をすべきだと言われた。ウィメットは乾物店でしばらく働いた後、のちの野球殿堂入り選手ジョージ・ライトが所有するスポーツ用品店に就職した[3][4]
ゴルフ歴
1913年全米オープン

1913年、ウィメットは20歳で最初の重要なゴルフ大会であるマサチューセッツアマチュアに優勝し、さらにその後もこの大会では5回優勝した。彼は9月上旬にニューヨーク州ロングアイランドにあるガーデンシティーゴルフクラブで開催された米アマチュアゴルフ選手権に出場、準々決勝で、最終的にこの大会の優勝者となるジェローム・トラバーズに敗れたが、この対戦を見ていた当時の USGA 会長ロバート・ワトソンから、主としてプロが出場する大会である全米オープン選手権に出場しないかと個人的に誘われた。全米オープンは通常毎年6月に開催されるが、この年は9月中旬に変更されていた。著名な英国人ゴルファーであるハリー・バードンとテッド・レイを招待するためだった[5]。バードンは1900年の全米オープンの勝者で、全英オープンにはこのときまでに5回優勝していた。レイは前年(1912年)の全英オープン優勝者だった。1913年の全米オープンはウィメットが一番よく知っているブルックラインのザカントリークラブで開催される。ウィメットは当初は辞退した。仕事を休んで全米アマに出場して帰ったばかりだというのがその理由だった。だが雇用主の協力が得られ出場できることが決まった。

ウィメットにとって全米オープンに出場するのはこれが初めてだった。10歳のエディー・ロワリーがウィメットのキャディを務めた。72ホール(3ラウンド)を終了してウィメット、バードン、レイの3人が同スコアで並び、翌日、雨の降るなか18ホールのプレーオフが行われた。ウィメットはこのプレーオフを1アンダーで回り、バードンに5ストローク、レイに6ストロークの差をつけて優勝した[6]。この勝利は、世界のトップ2とみなされ、強い人気を誇った英国人を破ったという驚愕と動揺を広くもたらした。全米オープンに初めて優勝したアマチュアでもあり、プレーオフにはこれまでにない数のギャラリーがついた。ウィメットの優勝を国中の新聞がトップページで報道した。

ウィメットの全米オープン優勝により、ゴルフは米国の主要スポーツの一つとなった。この勝利まで、ゴルフ界は英国人に独占支配されており、また米国ではゴルフはプライベートなクラブに入会できる者だけがプレーできるものと考えられていた。公営のゴルフ場の数も少なかった(最初の公営コースはニューヨークシティのヴァンコートランドゴルフコースで、開設は1895年)。1913年のウィメットの優勝後10年間でゴルフ人口は3倍に増え、公営ゴルフ場を含む沢山のコースも開場した。

1963年、ボストンの公共テレビ局であるWGBH-TVは、1913年の全米オープンでの勝利50周年を記念して、マサチューセッツ州ブルックラインのザカントリークラブにおいてウィメットとのインタビュー収録を実施し、これを放送した。ウォルトディズニー映画 “The Greatest Game Ever Played” のDVD版にはそのインタビューシーンが付録されている。ディズニー映画社は「artistic license(詩的許容)」を取得しており、実際にはウィメットは2位に5ストロークのリードで優勝したが、映画では1ストローク差で勝利したと描写されている。
論争解決

ウィメットは決してプロゴルファーに転向しなかった[1]。全米オープンでの勝利以前の段階で、既にビジネスの世界に身を置きたいとの願望を持っていた。しかし、1916年に USGA はこの団体史上最も議論の余地のある決定の一つとして、ウィメットからアマチュア資格を剥奪した。その理由は、彼が高い知名度でもって彼自身のスポーツ用品ビジネスにこれを利用していた、すなわちゴルフで生計を立てているとみなされたことによる。当時、キャディは16歳になったらプロ宣言をしない限りはキャディ職を続けることができないとされたほどアマチュア資格には厳しかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef