フランシスコ・ボルハ
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聖フランシスコ・ボルハ
イエズス会司祭

教会カトリック教会
聖職
司祭叙階1551年5月23日
個人情報
出生 バレンシア王国
バレンシア
ガンディア近郊
死去 教皇領
ローマ
聖人
記念日10月10日
崇敬教派カトリック教会
列福1624年11月23日
列福決定者ウルバヌス8世
列聖1671年6月20日
列聖決定者クレメンス10世
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聖フランシスコ・デ・ボルハ(西: San Francisco de Borja, 1510年10月28日 - 1572年9月30日)は、16世紀スペインの貴族、軍人、政治家、聖職者。イエズス会士。第3代イエズス会総長。カトリック教会聖人で祝日は10月10日。象徴は帝冠を被った頭骨。地震に対する守護聖人
生涯
幼少期

1510年、バレンシア王国ガンディア近郊でボルジア家出身の第3代ガンディア公フアン・ボルハ(フアン・ボルジア)とアラゴン王女フアナの長男として生まれた。

母方の祖父でサラゴサ大司教とバレンシア大司教のアロンソ・デ・アラゴン(英語版)(またはアルフォンソ・デ・アラゴン)は、アラゴン王フェルナンド2世と愛妾アルドンサ・ルイス・デ・イボッラ・イ・アレマニ(英語版)の庶子であった。また、父は若死にした同名の第2代ガンディア公フアン・ボルジアの長男でローマ教皇アレクサンデル6世の孫である事から、フランシスコはアレクサンデル6世の曾孫にあたる。父は2度の結婚でフランシスコを含む13人の子(または17人。庶子が1人いたとも)を儲け、長男フランシスコは後継者として定められ、6人の弟のうち1人はカタルーニャ副王、残りの5人は聖職者に育てられた[注 1][3][4][5]

小さい頃から信仰深かったフランシスコは聖職者になりたいという望みを抱きながら、将来を心配した父から乗馬・狩猟・武術を勧められ田舎生活を送っていたが、1520年に衝撃的な出来事が2つ起こりそれまでの生活に別れを告げた。1つは母の死で、ショックを受けたフランシスコは自室に閉じこもり自分を責めた。もう1つはコムネロスの反乱で、戦闘の余波がガンディアにもおよんだため父や家族と共にガンディアを離れ、母方の伯父のサラゴサ大司教フアン・デ・アラゴン(スペイン語版)に引き取られ、3年にわたり騎士廷臣として文武両道の教育を受けて成長した[6][7][8]

1523年、13歳のフランシスコは父の意向でトルデシリャスへ赴いた。ここではフランシスコの母方の大叔母に当たるカスティーリャ女王フアナが幽閉され、娘でフランシスコの従叔母に当たるカタリナと一緒に過ごしていた。フランシスコはカタリナに小姓として仕え、2年後の1525年にカタリナがポルトガルジョアン3世に嫁ぐと父の命令でサラゴサへ戻り、修辞学哲学を修めた。1528年にカタリナの兄でフランシスコには従叔父に当たる神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の宮廷へ出仕する頃には、美貌と騎士としての力強さおよび謙虚さを兼ね備えた若者になっていた[8][9][10]
宮廷へ出仕

家族に宮廷へ送り込まれるとそこで頭角を現し、皇帝カール5世と皇后イサベルの目に留まり、1529年9月にマドリードでポルトガル貴族の婦人で皇后の女官でもあるレオノール・デ・カストロ・メロ・エ・メネゼス(英語版)と結婚した。外国人と息子の結婚を嫌う父の反対に遭ったが、皇帝の執り成しで結婚の同意を得られ、2人の間には8子が生まれた。続いて皇帝夫妻から恩寵が与えられ、フランシスコは皇帝からロンベイ侯爵および王室狩猟長、皇后からは自分の馬術教師に任命され、夫婦そろって皇帝夫妻の友人として重用された。更に1530年、カール5世が外国へ行く時にフェリペ王太子(後のスペイン王フェリペ2世)の個人教師と皇室執事にも任命されている[8][9][11]

この頃、異端の疑いで異端審問所により投獄されたイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、会話したという。フランシスコは仕事が忙しくなり、ロヨラのことはさほど印象に残らなかったが、ロヨラは釈放された後イエズス会を立ち上げることになる[12]

昼夜を問わず皇帝の館へ出入りする許可を与えられたフランシスコは多忙になり、皇帝に同行して幾度も従軍し、1535年チュニス征服に従軍した際、マラリアに罹り長期間病床から離れられなかった。翌1536年7月にフランス南部プロヴァンスへの遠征(第四次イタリア戦争)にも従軍したが負け戦に終わっただけでなく、友人ガルシラソ・デ・ラ・ベーガを失う痛手も負った。これとは別に皇帝の国内巡行に同行、皇帝に代わり学問に打ち込み、アロンソ・デ・サンタ=クルス(英語版)の講義を受けてその知識を皇帝へ伝達する役目もこなし、全力で主君に尽くした結果、再度重病に倒れる羽目に陥った[13][14]

病気から回復した1539年、亡くなった皇后の葬儀を取り仕切り、葬儀の先頭に立つ王太子と共に遺体を警護して妻と共に埋葬地グラナダへ向かった。フランシスコはそこで、美しかった皇后でも命を失えば儚く崩れていく様を見て「2度と命ある君主に仕えまい」と決め、隠棲を考え始めた。しかし、まだ若い貴族だった彼は皇帝からカタルーニャの副王に命じられ、4年間よく同地を治めた。ここでは盗賊と反抗的なアラゴン貴族や不正を働く官僚達を厳しく取り締まり、防衛強化と治安維持に努力した。カタルーニャ住民には好意を持たず、住民からも厳格な統治をあまり受け入れられなかったが、皇帝からの信頼は深まり財政援助のためサンティアゴ騎士団の領土を分与、騎士団幹部に任命された[15][16][17][18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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