フランシスコ・デ・ミランダ
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フランシスコ・デ・ミランダ

生誕1750年3月28日
ヌエバ・グラナダ副王領カラカス
死没1816年7月14日
スペイン王国カディス
職業革命家、大元帥
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セバスティアン・フランシスコ・デ・ミランダ・ラベーロ・イ・ロドリゲス・デ・エスピノーサ(西:Sebastian Francisco de Miranda Ravelo y Rodriguez de Espinoza, 1750年3月28日 - 1816年7月14日)は、ベネズエラの革命家。一般的にはフランシスコ・デ・ミランダ(スペイン語発音: [f?an?sisko de mi??anda])として知られ、シモン・ボリバルの先駆者とも見做されている。ミランダはスペイン帝国からの独立およびイスパノアメリカの統合を狙ったが失敗し、1812年にスペインに捕えられ、刑務所内で1816年に死去した。しかし、ミランダの死後14年のうちにイスパノアメリカの大部分は独立を果たしている。
経歴
生立ちカラカスにあるミランダ像

セバスティアン・フランシスコ・デ・ミランダは1750年、カナリア諸島で商人をしていたセバスティアン・デ・ミランダ・ラベーロとベネズエラ人フランシスカ・アントーニア・ロドリゲス・デ・エスピノーサの子供として裕福な家に生まれた。私立学校に通ったものの、白人でなくクリオーリョであることから差別を受け、そのことに疑問を抱きつつ成長した。
米国へ

1771年にミランダはスペイン帝国陸軍に入隊した。そして、アラゴン[要曖昧さ回避]の聯隊に配属され、アメリカ独立戦争に関心を示した。1781年にはアメリカ独立戦争のペンサコーラの戦いに参戦し、中佐に昇進した。

翌年1782年、バハマ占領にも参戦したミランダはバハマ島陥落の報をベルナルド・デ・ガルベス・イ・マドリーに告げたが、ガルベスは自らの許可無くバハマに侵攻したことに憤慨し、ミランダは捕えられた。この時のスペインの非公式を是としない方針に納得できなかったことがミランダをスペイン帝国からの独立へと向かわせたとも言われている[1]

1783年、解放されたミランダは米国へと戻り、ボストンから英国行の船に乗る。そこでジョージ・ワシントントマス・ペインアレクサンダー・ハミルトンヘンリー・ノックストマス・ジェファーソン等の面々と遭遇した。
欧州へ

1785年8月9日に英国に着いた後、ミランダはヴェネツィアパドヴァヴェローナマントヴァパルマモデナボローニャフィレンツェピサルッカリヴォルノローマナポリ等、現在のイタリア共和国にあたる地域の都市を同年11月12日から翌1786年3月16日にかけて周遊した。そして4月2日、ドゥブロヴニク(かつてはラグーサ)に到着、9月23日までオスマン帝国コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に滞在した。9月26日から翌1787年9月7日の約一年間はロシア帝国で過ごした。同月10日にスウェーデン王国の首都ストックホルムに到着、11月2日まで滞在し、10日から12月17日までをノルウェー王国及びスウェーデンに戻ってカールスクルーナで過ごした。そこからは乗船し、翌1788年3月10日までをデンマークで過ごした。その後はハンザ同盟のハンブルク及びブレーメンで4月1日から同月27日までを過ごし、オランダ王国で5月2日頃から6月16日までを過ごした。そして、ライン川沿いに現在のベルギー王国ドイツ連邦共和国の都市を経由しながら南下し、スイス連邦バーゼルに7月30日に到着し、9月25日にはジュネーブに到着した。フランス共和国に入りマルセイユに滞在した後、ボルドー1789年2月26日に到着した。その後は北上し、ルーアンル・アーヴルパリ等に滞在した。そして、ドーバーへ向かい、6月19日にロンドンに到着し、友人の家に身を寄せた。

一方のスペイン帝国はミランダを外交上の理由で捕獲しようとしていたが、ロシア帝国駐ロンドン大使セミヨン・ヴォロンツォフが、時の英国外務英連邦大臣のフランシス・フォドルフィン・オズボーンに対し、エカチェリーナ2世の下に於ける任務を果たさせることによりミランダをスペイン帝国から引き離した。そして、ミランダはロシア帝国下に於いてアメリカ大陸への移住を勧めた。ロンドンフィッツロイ広場にあるミランダ像
フランス革命期

ミランダは1791年よりフランス革命に参加した。彼はパリでジロンド派ジャック・ピエール・ブリッソーとジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴと知り合い、シャルル・フランソワ・ディムーリエ率いるフランス革命軍の一員としてネーデルラントに赴いた。

1793年4月にアントワーヌ・フーキエ=タンヴィルに捕えられたミランダは、ディムーリエの政府に対する謀略を計画したとして非難された。ジャン=ポール・マラーはこのことについて、ミランダは無罪を主張しているが、同年6月に再逮捕されラ・フォース刑務所に拘置された。そして、その中においても恐怖政治を執行する公安委員会を非難していた、と記している。1794年6月にテルミドールのクーデターマクシミリアン・ロベスピエールが処刑されてもなお、翌1795年1月まで拘置された。その後の総裁政府に対しても反抗的態度を示したため、再逮捕され、国外追放された。

しかしながら、1797年9月にフランス国内にミランダは再び出現したので、警察の裏情報でも彼の名前がよく挙がるようになったが、ミランダを捕える前に彼自身がフランス革命に失望し、1798年1月にはドーバーへ去ったために逮捕には至らなかった。そして、その後はロンドンに移住し、二人の子供と使用人、妻のサラ・アンドリューと暮らし[2][3] 、また、この頃ウィリアム・ステファンズ・スミスと出会った。

フランス革命に参加したために、アメリカ大陸出身人物としては唯一、フランス第一帝政によって作られたエトワール凱旋門にその名が刻まれている。
南米へラ・グアイラでのミランダの歓待(19世紀ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス作)。


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