フランシスコの平和の祈り
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「フランチェスコ像」(イタリアピエモンテ州

フランシスコの平和の祈り(ふらんしすこのへいわのいのり)は、13世紀イタリア半島で活動したフランシスコ会の創設者、アッシジのフランチェスコ(聖フランシスコ)に由来するとされた祈祷文。実際にはフランシスコの作ではないが、そのように広く信じられて愛唱されており、マザー・テレサヨハネ・パウロ2世マーガレット・サッチャーなど著名な宗教家や政治家が演説の中で引用や朗誦を行い、公共の場で聴衆と共に唱和するなどして有名。
誕生から誤解までの経緯

今日、広く世界で「聖フランシスコの平和の祈り」として知られる祈祷文は、1912年、第一次世界大戦前夜のフランスのカトリック信徒団体「聖ミサ連盟(Ligue de la Sainte-Messe)」の発行部数8000部の月次報告書『鈴(Le Clochette)』の中に「ミサにおける美しい祈り(Belle priere a faire pendant la Messe)」として無署名で発表されたものが初出である。掲載された報告書の中には、その祈祷文についての一切のコメントは無く、聖フランシスコへの言及もない。また、1919年に廃刊されるこの月次報告書にこの祈祷文が掲載されることはその後は二度と無かった。作者は、団体創設者で月次報告書の編集者であったエステール・ブクレル神父であろうとも推測されているが、それを裏付ける資料は発見されていない。[1]

ブクレル神父は作家のゾラユダヤ人フリーメイソンプロテスタント、イギリス人、ドイツ人などを「敵」扱いするなど[2]、思想的にはカトリック右派に属していた。当時は聖体崇拝運動に関与しており、「聖ミサ連盟」もそれを趣旨とする信徒団体であった[3]

この祈祷文は、その翌年に『平和の聖母』というノルマンデー地方の信徒団体の年報誌に転載された[4]。それを読んだノルマン人のスタニスラス・ロシュトロン・グラント侯爵が、この祈祷文を広く世に出すことになる。グラント侯爵は「ヨーロッパの祖父」ウイリアム征服王の子孫と称し、『ノルマン通信(Souvenir Normand)』という雑誌に依ってヨーロッパ平和統一運動を行っていた。そして1915年12月に『ノルマン通信』の使者を通じてローマ教皇ベネディクト15世に二つの「平和の祈り」と「ノルマンディーの聖母の祈り」を献上した。[5]この時期は第一次世界大戦下であり、教皇は平和の祈りをカトリック世界によびかけていたのである[6]

この二つの「平和の祈り」のひとつが、前述した「ミサにおける美しい祈り」そのものだったのだが、ローマ教皇庁の記録によれば「ウイリアム征服王の遺志に啓発されて御心へ捧げられたノルマン通信の祈り」という題名で献上されている[7]。さらに、翌年1916年1月のカトリック機関紙Osservatore Romanoは「『ノルマン通信』は平和のための祈祷文を教皇様に献じた。ウィリアム征服王の遺志に啓発され、イエスの御心に捧げられたその祈祷文を掲載する。感動的なまでに簡単な原文そのままに」という紹介文と共に「平和のための『ノルマン通信』の祈り」と題した祈祷文の全文をイタリア語で掲載した。[8] 次いで、フランスのカトリック紙『十字架(La Croix)』は、このイタリア語版をフランス語に逆翻訳して掲載した[9]。この時点で、オリジナルの祈祷文からの差異を生じることになったが[10]、祈祷文自体はこの後も様々な題名を付けられながら世に知られて行くようになる。さらにアレクサンドル・ポンはその著作の中で、この祈祷文を引用しながら「これはウイリアム征服王の遺言に基づいた古(いにしえ)の祈祷文である」と説明をつけることで、この祈祷文が古いものであるという誤解を広めた[11]

この祈祷文は在俗フランシスコ会(第3会)の団体においても愛唱された。その結果、聖フランシスコの御絵(肖像カード)の裏にこの祈祷文が印刷されたものが作成され、広く配られた。この御絵には、祈祷文が聖フランシスコのものだとは書かれていないのであるが、この御絵によって祈祷文の作者が聖フランシスコであるという誤解が生じたのではないかと研究者たちは推測している。[12]

この祈祷文は教派の壁を越えて、プロテスタントにも広がった[13]。この祈祷文を用いた信徒団体の一つが「平和の王子の騎士運動」である。


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