フランコ・バレージ
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フランコ・バレージ

ダボス会議2012 国際スポーツナイトにて
名前
本名フランチェスキーノ・バレージ
Francheschino Baresi
愛称ピッシニーン
ラテン文字Franco Baresi
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1960-05-08) 1960年5月8日(64歳)
出身地トラヴァリアート
身長176cm
体重70kg
選手情報
ポジションDF(CB)
利き足右足

クラブ1
年クラブ出場(得点)
1977-1997 ACミラン 532 (16)
代表歴
1982-1994[1] イタリア81 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フランコ・バレージ(Francheschino "Franco" Baresi, 1960年5月8日 - )は、イタリアの元サッカー選手。選手時代のポジションはディフェンダー。キャリアの初期はMF[2]

1980年代から1990年代にかけて活躍し、現役生活を通じてACミランでプレー、ディフェンダーとしては決して体格に恵まれていたわけではなかったが[3]、リベロとしてのプレーぶりは的確な読みで相手の攻撃の芽を摘み、相手陣内深くドリブルで切り込むこともあった[4]。特に戦術眼と読みの鋭さは一級品であった[3]。長年、彼が背負った背番号6番は、引退後にクラブの永久欠番となっている[3]

実兄のジュゼッペ・バレージ(Giuseppe Baresi)も元インテル所属、元イタリア代表のサッカー選手。家族は妻と長男の他に、養子が一人いる。
クラブ経歴

1960年5月8日、イタリアロンバルディア州ブレシア県トラヴァリアートに生まれる[5]。11歳の時に母親を病で失い、14歳の時にトラクターの事故で父親を失った[2]

1974年、実兄ジュゼッペが所属していたインテルを受けるが、痩せていて、身体が小さいという理由で不合格[4]、体を大きくして来年またトライアルを受けるように言われた[2]。そこをACミランの関係者に誘われ、ミランのプリマヴェーラに加入する[5]。1978年、下部チームで実力を増したバレージはトップチームに昇格。ニルス・リードホルム監督に高く評価され、同年4月23日に17歳で、エラス・ヴェローナ戦でプロデビューを飾り[5]、デビュー戦どのプレーはメディアから高く評価された[2]。1979年、2年目にはレギュラーポジションを奪取し、リーグ戦30試合に出場[2][5]。1978年11月12日には、ミラノダービーで兄ジュゼッペと初めて対戦した[2]ジャンニ・リベラファビオ・カペッロといった名手たちとともに、早くも最初のスクデットを手にした[5]。リベラの引退後、バレージはクラブの主役となったが、翌1980年、大規模な不法賭博スキャンダルが発覚し事件に関与したとされたACミランは、SSラツィオと共にセリエBへの降格処分となった[5]

思わぬ形で2部リーグでのプレーを余儀なくされたが、1981年に1シーズンで這い上がる。しかし、このシーズンにはバレージ本人もウイルス性疾患を患い約4ヶ月戦列を離れた[2][6]。これによりミランは14位でシーズンを終え、処分ではなく、実力不足によるセリエB降格となった[5]。1982年、22歳の時には既にチームのキャプテンとなっていた[2]。オフシーズン、バレージの元に複数のクラブから移籍話が届いたが、その一切を断りミランに残留。この決断によりバレージはミランのファンや周囲の大きな信頼を獲得した[4][5]

1983年にミランはセリエAに復帰したが、トップグループに一歩及ばない成績が続いた。 その後チームは破産危機があったが、1986年に実業家シルヴィオ・ベルルスコーニがミランの会長に就任するとクラブの経営状況は一変[2]。豊富な資金力で翌1987年に2人のオランダ人フォワード、ルート・フリットマルコ・ファン・バステンを獲得、さらに当時無名であったアリゴ・サッキを監督に就任させた。サッキ監督の提案するゾーンプレスに当初はチームメイトらは懐疑的であったが、バレージはサッキ戦術のキーマンとしてチームを牽引。マウロ・タソッティや当時若手だったパオロ・マルディーニフィリッポ・ガッリアレッサンドロ・コスタクルタと共に強固なバックラインを形成した[2]。このシーズン早くもチームは機能し、ディエゴ・マラドーナを擁したSSCナポリを抑えスクデットを獲得した[5]

1988年、フランク・ライカールトを加えより厚みを増したミランは、主将バレージ率いる守備陣とオランダトリオを中心とした攻撃陣の活躍もあり、UEFAチャンピオンズカップ2連覇、インターコンチネンタルカップ2連覇とタイトルを獲得[5]。以降1990年代半ばまでの数年間、ACミランはリーグ優勝、チャンピオンズカップなど多くのタイトルを獲得する黄金期を築きあげ、1989年にはバロンドールの投票で第2位となるなど[2][7]、バレージは不動のディフェンスリーダー、キャプテンとしてチームを纏め上げた。1989-90のコパイタリアでは7試合4得点とDFながらトップスコアラーにもなっている[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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