この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー"
ドイツの政治家フランク=ヴァルター・シュタインマイヤーFrank-Walter Steinmeier
フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー(2022年4月8日)
生年月日 (1956-01-05) 1956年1月5日(68歳)
出生地 ドイツ連邦共和国
ノルトライン=ヴェストファーレン州
デトモルト
出身校ユストゥス・リービッヒ大学ギーセン
所属政党ドイツ社会民主党
配偶者エルケ・ビューデンベンダー
サイン
ドイツ連邦共和国
第12代 連邦大統領
在任期間2017年3月19日 -
副首相
内閣第1次メルケル内閣
在任期間2007年11月21日 - 2009年10月28日
外務大臣(第1期)
内閣第1次メルケル内閣
在任期間2005年11月22日 - 2009年10月28日
外務大臣(第2期)
内閣第3次メルケル内閣
在任期間2013年12月17日 - 2017年1月27日[1]
首相府長官
内閣第1次シュレーダー内閣
第2次シュレーダー内閣
在任期間1999年7月31日 - 2005年11月22日
テンプレートを表示
フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー[注釈 1](ドイツ語: Frank-Walter Steinmeier、1956年1月5日 - )は、ドイツの政治家(ドイツ社会民主党)。現在、同国第12代連邦大統領を務める。2005年より2009年まで第1次メルケル内閣で外務大臣を務めた。2007年11月より2009年10月まで副首相を兼任。2013年から2017年にかけて第3次メルケル内閣で外務大臣を務めた。その他1999年 ‐ 2005年、ゲアハルト・シュレーダー内閣で連邦首相府長官。2007年上半期に欧州連合理事会議長を務めた。 ノルトライン=ヴェストファーレン州デトモルト生まれ。父は木工職人、母は工場労働者。既にギムナジウム在校中にドイツ社会民主党(SPD)の下部組織である社会主義青年団(ユーゾー)に参加した。卒業後に兵役を済ませ、1975年にSPD入党した。翌年ギーセン大学に入学し、1982年に司法修習生となり、1986年に国家司法試験に合格した。ギーセン大学で政治学(公法)の助手として勤務し、1991年にホームレス問題に関する論文で法学博士号を取得した。1991年、ニーダーザクセン州首相府に勤務し、メディア法・メディア政策を担当した。 1993年、ゲアハルト・シュレーダー州首相の個人秘書となり、翌年その政策および出納部門の長となった。1996年、ニーダーザクセン州首相府長官に就任した。 1998年ドイツ連邦議会選挙でシュレーダー率いるSPDが勝利して16年ぶりの政権交代を実現。連邦首相となったシュレーダーは、個人的信頼関係にあるシュタインマイヤーをボンに伴い、連邦首相府政務次官・情報特別担当に任命した。翌年7月に連邦首相府長官のボド・ホンバッハ
来歴
生い立ち及び初期の経歴
政界入り
こうした「痛みを伴う」改革案は国民の不興を買い、2005年ドイツ連邦議会選挙にシュレーダーは僅差で敗れ、アンゲラ・メルケルを首班とするキリスト教民主同盟(CDU)およびキリスト教社会同盟(CSU)[2]とSPDの「大連立」内閣が成立した。一般にはほとんど無名だったシュタインマイヤーがその外務大臣に迎えられたことは、世間を驚かせた。イタリアのある新聞は、シュタインマイヤーの写真として間違えて新財務相のペール・シュタインブリュックの顔写真を掲載したほどである。この任命にはシュレーダーの強い意向が働いたといわれる。実際のところシュタインマイヤーはシュレーダー内閣でもっとも政策に精通していた一人であり、かつて18年にわたりドイツ外交を主導したハンス=ディートリヒ・ゲンシャー元外相などは、この人事を評価した。
外務大臣イラン核開発問題で協議したシュタインマイヤー(右から2人目)と、フランスのドスト・ブラジ外相、イギリスのストロー外相、EUのソラナ上級代表(2006年12月、ドイツ外務省にて)