フランク人
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『ゲラシウスの典礼書(英語版)』。750年頃にメロヴィング朝フランク王国で作られたもので現在はヴァティカン図書館に所蔵されている。

フランク人(フランクじん)、またはフランク族(フランクぞく、: Franci、: Franken、: Francs、: Franchi、: Franks)は、ローマ帝国時代後期から記録に登場するゲルマン人の部族。
概要

一般的にサリー族とリプアリー族(英語版)(ライン・フランク族)に大別される。前者は西ヨーロッパにおいてフランク王国を建国した事で知られる。

フランクという名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する[1]。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉の最も古い用例は241年頃の歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてであり[2]、これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている[2]ローマ人ライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた。フランク(francus、franci)の語義は「勇敢な人々」[1]、「大胆な人々」[2]、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味であるとされている[3]

西ヨーロッパ全域を支配する王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国イスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を指す言葉として用いられた事もある。十字軍研究の分野では現代の学者たちもレヴァント十字軍国家を指して「フランク国家」と表現したり、移住したヨーロッパ人全般を指して「フランク人」と言う用語を用いる場合がある[4][5]
歴史
フランク人の形成
中世の歴史叙述におけるフランク人の起源

フランク人の起源についての情報は乏しい。ゲルマン人の一派であるゴート人の起源については、ゴート人の歴史家ヨルダネスが起源誌と言うべき『ゴート史(De origine actibusque Getarum)』を残し[6]ランゴバルド人についてはやはりランゴバルド人のパウルス・ディアコヌスによる『ランゴバルドの歴史(Historia Langobardorum)』等によってその起源が語られている[7]。それに対しフランク人は上記のような部族の起源を語る歴史記述者を出さなかった[6]。唯一、トゥールのグレゴリウスは、フランク人はパンノニアから出てトリンギア(Thoringia、テューリンゲン)に移住し、この地で他に比して高貴な家柄の者として「長髪の王」を推戴したという伝承を残している[8]。このパンノニア起源伝承については歴史家の間で数多くの議論を巻き起こしている[8]

また、11世紀後半にケルンまたはジークブルクの無名の修道士が綴った『アンノの歌』は、天地創造から始まるその叙述の中でフランク人の起源についての伝説を記録している。それによれば『ガリア戦記』で語られるユリウス・カエサルのガリア征服は、実際にはドイツ地方の征服であるとされ、その際カエサルに征服された4つの集団の1つとして「高貴なるフランク人(古高地ドイツ語:Frankien din edilin)」が挙げられている[9][注釈 1]」。そして、カエサル(=ローマ人)とフランク人は元来親族関係にあり、その共通の祖先はギリシア人トロイアを滅ぼした時にその地からイタリアに移住したトロイア人であると伝えられる[9]。そのトロイア人の指導者たちのうち、アエネイスに率いられた一団がローマを建設し、フランコ(Franko)という指導者に率いられた一団がライン河畔に「小トロイア」を建設し、フランク人が誕生したのだという[9]。この伝説は史実からはかけ離れた虚構の物語であり、今日の歴史学的見地からは史料的価値を見出すことはできない[10]。だが、フランス王は、フランク人の唯一の正統な後継者であることを自任していたため、王家であるカペー家の系譜をフランク人トロイア起源説に基づきトロイア人の英雄たちと接続した[10]。そして神聖ローマ帝国にあってはドイツ地方とローマ帝国の歴史的同一性の根拠と見做された[10]。このため、この伝説はフランス、ドイツ民族意識の確立過程や帝権イデオロギーに重大な影響を与えた[10]
現代の学説

今日定説として通用している説は、元来フランク人はまとまりを持った性格を持つ部族ではなく、3世紀半ばにライン川右岸に居住していたイスタエウォーネス神を祖先と見なす複数の部族、カマーウィー族(英語版)、ブルクテリー族、カットゥアリー族(英語版)、サリー族、アムシヴァリー族(英語版)などの部族が結集した政治的同盟として成立したとするものである[11][6][1][12]

フランク人は、紀元前1世紀の「ガリア戦記」や1世紀の「ゲルマニア」に記録されたような他の古いゲルマン人諸部族と違い、3世紀半ばになってから歴史上に現れる[2]。しかも、ローマ人が用いる他のゲルマニアの民族(部族)名が特定の集団を指したのに対し、「フランク人」は、ライン川とヴェーザー川の間の地域に居住した複数の部族の総称として用いられた[1]。289年にカマーウィー族が、307年にブルクテリー族が、306年から315年にはカットゥアリー族が、357年にサリー族が、そして364年から375年頃にかけてはアムシヴァリー族とトゥヴァンテース族(英語版)が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている[1]。これはあくまでもローマ人の張ったレッテルであり、実際にこれらの部族が「フランク人」という共族意識を持っていたかは不明である[1]アメリカの歴史学者パトリック・ジョセフ・ギアリ(英語版)は、ある集団が置かれた政治的状況が中世初期の部族アイデンティティーの形成に重要であったことを指摘しており、フランク族においても同様のことが言えるかもしれない[1]

3,4世紀の「フランク人」たちが共通の言語、習俗、風俗を持っていたかは不明であるが[1]、一般に古代末期から中世初期にかけてのゲルマン人は髪を部族への帰属を示す指標としたことが知られており、少なくとも5世紀にはフランク人たちも共通する髪型によって帰属を示していた[13]。フランク人の王族は長髪を切らずにたなびかせ王権の象徴とした一方、一般戦士の男性は青年期に達した時、「最初の断髪」によって後頭部を剃りあげた[13][14]
ローマ帝国とフランク人

フランク人は最初期の記録においてローマ帝国の敵として現れる[15]。彼らは既にローマ化されていたガリアに3世紀頃侵入した[15]。しかし、フランク人とローマの敵対関係はローマの司令官ユリアヌスと関係を持ったことで大きな転換点を迎えた[16][17]。フランク人のサリー族はユリアヌスによって358年ブラバント北部のトクサンドリア地方(英語版)[注釈 2]への移住を認められ、国境警備の任にあたるようになった[18][17]。この時からサリー族はローマの補助軍に組み込まれ、フランク族特有の武器と戦術を備えた「部隊(numeri)」を形成した[17]361年にユリアヌスがローマ皇帝に即位した後も、サリー・フランク人は彼の指揮下でローマ軍として戦い、軍役が終了した後にはガリアで退役兵として土地の割り当てを受けた[17]。彼らはロワール川からセーヌ川にいたる地域に定住し、その生活様式は現地人と同化していった[19]

また、ローマ軍としての勤務はサリー族の支配層がローマ帝国の組織内において栄達していく切っ掛けとなった[16]。部族の指導的家系の出身と考えられるメロバウデス377年382年西ローマ帝国執政官(コンスル)職に就任した[2]。これは皇族でない者としては未曽有のことであった[2]。また、380年にはグラティアヌス帝によってフランク人のフラウィウス・バウトが軍司令官に任命され、その5年後には執政官(コンスル)に就任した[16]。バウトの甥にあたるテウドメール(英語版)は「フランク人の王(rex Francorum)」という称号を帯びた最初の人物であり[2]、マロバウデス(英語版)というフランク人はローマ軍の将軍を務めた後、「フランク人の王」になり378年アレマン族との戦いを勝利に導いたとされる[20]。バウトの娘アエリア・エウドクシア(英語版)は395年東の皇帝アルカディウスの妃となり、後の皇帝テオドシウス2世を生んでいる[16]。このように4世紀後半にはほぼ1世代にわたり、ローマ帝国内でフランク人出身者が目覚ましい躍進を遂げた。

とはいえこの躍進は、フランク部族の統合を意味しなかった[16]380年頃、ライン・フランク人(リプアリー・フランク人)たちは、ゲンノバウド(英語版)、マルコメール(英語版)、スンノ(英語版)という三人の指導者の下、ライン川を越えてローマ領に侵入し周辺を荒らしまわった[20]。やはりフランク人であり帝国に仕えていたアルボガスト(英語版)は、皇帝ウァレンティニアヌス2世に、これらのライン・フランク人の首長たちが略奪品の返還と首謀者の引き渡しに応じなければ、ライン・フランク人を殲滅すべきであると進言したと伝えられている[20]。ウァレンティニアヌス2世は人質の引き渡し交渉が開始されただけで満足したが、ウァレンティニアヌス2世の死後、傀儡のエウゲニウス帝を推戴したアルボガストはライン・フランク人に対して大規模な軍事行動を起こし、このフランク人の王たちを鎮撫した[20]。その後アルボガストはテオドシウス1世との戦いに敗れ、自決に追い込まれた[16]。これを契機に、ローマ中央政界におけるフランク人の進出は退潮に向かい、代わってゴート人たちがその権勢を拡大していくこととなった[16]
王権の確立

上述の通り4世紀末の段階では、フランク人には確立した王権はなく、数多くの集団が「将領」的統率者の下で割拠していたと考えられる[8]。トゥールのグレゴリウスが引用するスルキピウス・アレキサンデルの歴史書は、このフランク人の支配者について、最初の王の名前を挙げることなく、彼らが大公(ducas)を有していたと表現している[16]。このことは4世紀末の段階で、フランク人の下では確立した王制が未だ存在せず、古来からのゲルマン人に見られた「大公」たちによる連合体制がとられていた事を示唆している[16]。また、グレゴリウスはこの時代のフランク人の支配者を「王のごとき者(regales)」、または「小王(sub-regules)」と表現し、「王(rex)」として扱わない[8]

グレゴリウスは、フランク人がパンノニアから出たとし、初めライン川沿岸に定着した後、ライン川を越えてトリンギア(Thoringia)に移り、その地でパグス(pagus)とキウィタス(civitas)ごとに高貴な家柄の者として「長髪の王」を推戴したと記す[8]


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