フランク人(フランクじん)、またはフランク族(フランクぞく、羅: Franci、独: Franken、仏: Francs、伊: Franchi、英: Franks)は、ローマ帝国時代後期から記録に登場するゲルマン人の部族。 一般的にサリー族とリプアリー族
概要
フランクという名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する[1]。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉の最も古い用例は241年頃の歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてであり[2]、これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている[2]。ローマ人はライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた。フランク(francus、franci)の語義は「勇敢な人々」[1]、「大胆な人々」[2]、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味であるとされている[3]。
西ヨーロッパ全域を支配する王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を指す言葉として用いられた事もある。十字軍研究の分野では現代の学者たちもレヴァント十字軍国家を指して「フランク国家」と表現したり、移住したヨーロッパ人全般を指して「フランク人」と言う用語を用いる場合がある[4][5]。 フランク人の起源についての情報は乏しい。ゲルマン人の一派であるゴート人の起源については、ゴート人の歴史家ヨルダネスが起源誌と言うべき『ゴート史
歴史
フランク人の形成
中世の歴史叙述におけるフランク人の起源
また、11世紀後半にケルンまたはジークブルクの無名の修道士が綴った『アンノの歌』は、天地創造から始まるその叙述の中でフランク人の起源についての伝説を記録している。それによれば『ガリア戦記』で語られるユリウス・カエサルのガリア征服は、実際にはドイツ地方の征服であるとされ、その際カエサルに征服された4つの集団の1つとして「高貴なるフランク人(古高地ドイツ語:Frankien din edilin)」が挙げられている[9][注釈 1]」。そして、カエサル(=ローマ人)とフランク人は元来親族関係にあり、その共通の祖先はギリシア人がトロイアを滅ぼした時にその地からイタリアに移住したトロイア人であると伝えられる[9]。そのトロイア人の指導者たちのうち、アエネイスに率いられた一団がローマを建設し、フランコ(Franko)という指導者に率いられた一団がライン河畔に「小トロイア」を建設し、フランク人が誕生したのだという[9]。この伝説は史実からはかけ離れた虚構の物語であり、今日の歴史学的見地からは史料的価値を見出すことはできない[10]。だが、フランス王は、フランク人の唯一の正統な後継者であることを自任していたため、王家であるカペー家の系譜をフランク人トロイア起源説に基づきトロイア人の英雄たちと接続した[10]。そして神聖ローマ帝国にあってはドイツ地方とローマ帝国の歴史的同一性の根拠と見做された[10]。このため、この伝説はフランス、ドイツ民族意識の確立過程や帝権イデオロギーに重大な影響を与えた[10]。 今日定説として通用している説は、元来フランク人はまとまりを持った性格を持つ部族ではなく、3世紀半ばにライン川右岸に居住していたイスタエウォーネス
現代の学説
フランク人は、紀元前1世紀の「ガリア戦記」や1世紀の「ゲルマニア」に記録されたような他の古いゲルマン人諸部族と違い、3世紀半ばになってから歴史上に現れる[2]。しかも、ローマ人が用いる他のゲルマニアの民族(部族)名が特定の集団を指したのに対し、「フランク人」は、ライン川とヴェーザー川の間の地域に居住した複数の部族の総称として用いられた[1]。289年にカマーウィー族が、307年にブルクテリー族が、306年から315年にはカットゥアリー族が、357年にサリー族が、そして364年から375年頃にかけてはアムシヴァリー族とトゥヴァンテース族(英語版)が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている[1]。これはあくまでもローマ人の張ったレッテルであり、実際にこれらの部族が「フランク人」という共族意識を持っていたかは不明である[1]。アメリカの歴史学者パトリック・ジョセフ・ギアリ(英語版)は、ある集団が置かれた政治的状況が中世初期の部族アイデンティティーの形成に重要であったことを指摘しており、フランク族においても同様のことが言えるかもしれない[1]。
3,4世紀の「フランク人」たちが共通の言語、習俗、風俗を持っていたかは不明であるが[1]、一般に古代末期から中世初期にかけてのゲルマン人は髪を部族への帰属を示す指標としたことが知られており、少なくとも5世紀にはフランク人たちも共通する髪型によって帰属を示していた[13]。フランク人の王族は長髪を切らずにたなびかせ王権の象徴とした一方、一般戦士の男性は青年期に達した時、「最初の断髪」によって後頭部を剃りあげた[13][14]。