フランク・ロビンソン
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フランク・ロビンソン
Frank Robinson

基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地テキサス州ボーモント
生年月日 (1935-08-31) 1935年8月31日
没年月日 (2019-02-07) 2019年2月7日(83歳没)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り1953年
初出場1956年4月17日
最終出場1976年9月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


マクリモンズ高等学校(英語版)

シンシナティ・レッズ (1956 - 1965)

ボルチモア・オリオールズ (1966 - 1971)

ロサンゼルス・ドジャース (1972)

カリフォルニア・エンゼルス (1973 - 1974)

クリーブランド・インディアンス (1974 - 1976)

監督・コーチ歴


クリーブランド・インディアンス (1975 - 1977)

カリフォルニア・エンゼルス (1977)

ボルチモア・オリオールズ (1978 - 1980)

サンフランシスコ・ジャイアンツ (1981 - 1984)

ミルウォーキー・ブルワーズ (1984)

ボルチモア・オリオールズ (1985 - 1991)

モントリオール・エクスポズ
ワシントン・ナショナルズ
(2002 - 2006)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1982年
得票率89.16%
選出方法BBWAA選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

フランク・ロビンソン(Frank Robinson, 1935年8月31日 - 2019年2月7日)はアメリカ合衆国テキサス州ボーモント出身の元プロ野球選手外野手)、監督。右投右打

史上初めてMLB両リーグでMVPに選出され、ワールドシリーズMVP、オールスターMVP、三冠王、ゴールドグラブ賞などのありとあらゆる栄誉を獲得した。引退後はアフリカ系アメリカ人初のMLB監督となった。
来歴
プロ入り前

ロビンソンは1935年8月31日テキサス州ボーモントにて10人兄弟の末子として生まれる。幼少時に両親の離婚により、母親と兄弟とともにカリフォルニア州アラメダに移住して少年時代を過ごす。高校は近郊のオークランドのマクリモンズ高等学校(英語版)に通い、同級生には後にNBAで活躍するビル・ラッセルがおり、また、在学中の後輩にはカート・フラッドがいた。
レッズ時代シンシナティ・レッズでの現役時代
(1961年)

1953年、高校を卒業し、シンシナティ・レッズと契約。契約金は3500ドルで、同年はC級の傘下マイナーチームオグデン・レッズ(ユタ州オグデン)でプレーし、72試合出場して打率.348、83打点をマークする。1954年、AA級のタルサ・オイラーズ(オクラホマ州タルサ)に昇格してプレーするが、翌1955年、A級コロンビア・レッズ(サウスカロライナ州コロンビア)に降格となり、同年はそこでプレーした。

1956年、レッズに昇格し20歳でメジャーデビュー。152試合出場で新人最多タイの38本塁打を記録し、新人王に選出されたが、同時に新人最多となる20死球を受けているなど不遇なシーズンでもあった。

この後レッズの主軸として活躍して、1961年、ナショナル・リーグ優勝に貢献して最初のナショナル・リーグMVPを受賞した。また、翌1962年、 自身キャリアハイの打率.342、39本塁打、136打点と51二塁打を放っている。

しかし、1965年シーズン後、当時レッズのオーナーであるビル・デウィット(英語版)に

「30のロートルが。(not a young 30)」

と放言された挙句、ボルチモア・オリオールズにミルト・パパス(英語版)ら3人とのトレードで放出されてしまう。
オリオールズ時代

1966年よりオリオールズでプレーすることになったロビンソンは捲土重来を期した。チームメイトで主軸のブルックス・ロビンソンと「ロビンソン・コンビ」として活躍し、同シーズンは打率.316、49本塁打、122打点で三冠王に輝く[1]。この三冠がロビンソンの生涯唯一の打撃タイトルであり、かつアフリカ系アメリカ人選手として史上初めての三冠王獲得で、現在でも史上唯一である。

チームもリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズではロサンゼルス・ドジャースを下し、オリオールズ初のワールドチャンピオンとなった。ロビンソンはシーズンMVPとワールドシリーズMVPの両方に選出された。また、両リーグでシーズンMVPとなるのはMLB史上初の快挙だった。

その後も1969年?1971年のリーグ三連覇、1970年のワールドシリーズ制覇(奇しくもその時の相手は放出された古巣・レッズだった)に貢献し、1971年9月13日のデトロイト・タイガース戦で通算500号本塁打を達成した。ロビンソンのオリオールズ在籍時の背番号「20」。
ボルチモア・オリオールズの永久欠番に1972年指定。

1972年に2対4のトレードで、ロサンゼルス・ドジャースへ移籍することとなるが、この退団をもってオリオールズは現役中ながらロビンソンの功績を称え、在籍時の背番号『20』をチーム初の永久欠番に指定することとなった。
ドジャース?エンゼルス時代

1972年のロビンソンはレッズ以来のナ・リーグでのプレイとなるが打率.251、19本塁打、59打点の成績だった。また、背番号は『36』に変更してつけたが、この当時ドジャースの背番号『20』は後にアメリカ野球殿堂入りするエース、ドン・サットンがつけていたためであった。

同シーズン終了後、今度はカリフォルニア・エンゼルスに4対2[2]のトレードで移籍、翌1973年からは同年より導入された指名打者としてプレーした。1974年までのエンゼルスでのほぼ2シーズンの成績は打率.259、249安打、50本塁打、160打点の成績だった。
インディアンス時代

1974年9月12日、ロビンソンはクリーブランド・インディアンスに移籍、そして移籍3週間後に選手兼任監督に就任することとなった。


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