フランク・ホーレー_(言語学者)
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フランク・ホーレー(Frank Hawley、1906年(明治39年)3月31日[1] - 1961年(昭和36年)1月10日[2])は、イギリス出身の言語学者、日本古典籍の収集家[3]。明治古典会長などを歴任した反町茂雄は、「外国人としては最高最大[4]」の古典籍収集家と評した[5]
生涯

ホーレーはイングランドダラム州ストックトン=オン=ティーズ近郊のノートン(Norton)で生まれた[2]

リヴァプール大学に進みフランス語と文献学を修める[2]。卒業後はパリ大学ベルリン大学ケンブリッジ大学東洋学を学び、Bachelor of Arts(文学士)およびMaster of Arts(文学修士)を取得し[1]ロンドン大学満州語の教師となる[3][2]

日本からイギリスを訪れていた英語学者千葉勉による招聘で、1931年(昭和6年)に語学教師として旧制東京外国語学校旧制東京文理科大学に赴任した[3][2]。当時は文化アパートメントに居住したという[6]

ホーレーは日本に来るまで日本語を学んでいなかったといい、後日、知っていたのは「釣鐘泥棒」という単語だけだったと語ったという[2]。しかし1933年頃には日本語の起源や『竹取物語』に関する論文を日本語で著し、『改造』などに寄稿するまでになった[2]。日本古典文学や日本語の研究家として知られるようになり、駐日英国大使館の英国文化研究所の所長に任じられた[2]

1934年(昭和9年)から京都の旧制第三高校に英語講師として赴任[1]、京都に移住し、日本人の美野田俊子と結婚した[2]

第二次世界大戦勃発に伴い、妻ともども逮捕され、東京拘置所(巣鴨拘置所の前身)に7か月間拘留された後[2]、1941年(昭和16年)に母国へ送還された[3]。戦時中は英国放送協会で日本語放送に携わったほか、外務省で日本の情報収集を行った[2]

終戦後、英国紙『ザ・タイムズ』などの特派員となり[3][1]、1946年(昭和21年)7月に再来日を果たすと、同紙東京支局長となった[2]。終戦直後の荒廃した日本の様子から占領政策新憲法成立、東アジアの国際情勢など、退社までに約3,000件の記事をイギリス本国へ打電している[2]。この間、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーをはじめ、英国駐日大使アーヴァリー・ガスコイン(英語版)(Alvary Gascoigne)、芦田均らに単独記者会見を行っている[2]


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