フランク・ハワード
Frank Howard2009年7月31日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地オハイオ州コロンバス
生年月日 (1936-08-08) 1936年8月8日(86歳)
身長
体重6' 7" =約200.7 cm
255 lb =約115.7 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手、一塁手
プロ入り1958年
初出場MLB / 1958年9月10日
NPB / 1974年4月6日
最終出場MLB / 1973年9月30日
NPB / 1974年4月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
オハイオ州立大学
ロサンゼルス・ドジャース (1958 - 1964)
ワシントン・セネタース
テキサス・レンジャーズ (1965 - 1972)
デトロイト・タイガース (1972 - 1973)
太平洋クラブライオンズ (1974)
監督・コーチ歴
ミルウォーキー・ブルワーズ (1977 - 1980)
サンディエゴ・パドレス (1981)
ニューヨーク・メッツ (1982 - 1984)
ミルウォーキー・ブルワーズ (1985 - 1986)
シアトル・マリナーズ (1987 - 1988)
ニューヨーク・ヤンキース (1989, 1991 - 1992)
ニューヨーク・メッツ (1994 - 1996)
タンパベイ・デビルレイズ (1998 - 1999)
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フランク・オリバー・ハワード(Frank Oliver Howard, 1936年8月8日 - )は、アメリカ合衆国・オハイオ州コロンバス出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴・人物 ロサンゼルス・ドジャース時代
(1962年10月)
オハイオ州立大学時代、野球の他にバスケットボールでも全米選抜チームに選ばれた実力があり、フィラデルフィア・ウォリアーズ(現在のゴールデンステート・ウォリアーズ)からドラフト指名も受けていたが、野球を選び、ロサンゼルス・ドジャースと契約する。1958年9月10日にメジャーデビュー。その後もしばらくはマイナーリーグとメジャーを往復するが、1960年にはレギュラーに定着し、23本塁打、77打点を記録し、ナ・リーグルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)に選出された。1962年には33本塁打・117打点と活躍するが、その後2年低調に終わったこともあり、1965年にワシントン・セネタース(現在のテキサス・レンジャーズ)に移籍する。
1968年5月12日から5月18日にかけて、6試合連続・20打数で10本塁打を打った。1週間で10本塁打は現在でもメジャータイ記録。また、これをはさんで16試合で13本塁打を打ち、これも1995年にアルバート・ベルが記録するまでなかった。この年は44本塁打で初の本塁打王に輝き、MLBオールスターゲーム初出場も果たした。1970年には44本塁打・132打点を記録し、アメリカンリーグの本塁打王・打点王の二冠に輝く。四球132もリーグ1位であった。タイガー・スタジアム史上3人しかいない、外野席最上段の屋根直撃弾を放った(残りの2人はハーモン・キルブルーとセシル・フィルダー)。
セネタースは1972年にテキサス州に移転してテキサス・レンジャースとなったが、この年から成績が急降下する。シーズン途中にデトロイト・タイガースに移籍したが、1973年は打率.256、12本塁打に終わった。
シーズン終了後、太平洋クラブライオンズと破格の年俸80,000ドルで契約した[1]。メジャー通算1774安打、382本塁打、1119打点を記録しており、当時日本球界に来た外国人選手の中では最高の実績であった。特にMLB通算本塁打382本、同打点1119打点は2012年シーズン終了後東北楽天ゴールデンイーグルスにアンドリュー・ジョーンズが入団するまで日本球界でプレイ経験のある外国人選手としては歴代最多であった。しかし膝の故障のため、1974年の開幕戦1試合に出場したのみで後は出場がなく5月には帰国。身長は約2メートルを超える巨漢でありながら性格は温厚で「足長おじさん」の愛称で慕われていた。
引退後は1981年にサンディエゴ・パドレスの監督に就任した。この年のパドレスは後に日本でプレーするランディ・バースやルパート・ジョーンズにホアン・アイケルバーガー、以前に日本でプレーしていたフレッド・クハウルアが在籍していた。その年はシーズン途中に選手会の50日間に及ぶストライキが発生し、シーズンが前後期のスプリットシーズン制にされたが、いずれも最下位に終わり、一年限りで解雇された。1983年途中にニューヨーク・メッツの監督に就任するが、こちらでも最下位に終わり、同年限りで解雇された。2回にわたる監督の通算成績は93勝113敗であった。前後してミルウォーキー・ブルワーズ(1977年?1980年、1985年?1986年)、メッツ(1982年?1983年途中、1994年?1996年)、シアトル・マリナーズ(1987年?1988年)、ニューヨーク・ヤンキース(1989年・1991年?1992年)、タンパベイ・デビルレイズ (1998年?1999年)でコーチを務めた。2000年以後はヤンキースで育成インストラクターを務めている。
2005年にワシントン・ナショナルズが移転し、首都ワシントンD.C.に34年ぶりにメジャー球団が戻ったが、初試合の試合前の始球式の際にレフトの守備位置につき、観客から大歓声を受けた。 1973年に太平洋クラブライオンズがシーズンオフに考え出した策は、現役の超大物メジャーリーガーを獲得して集客力をアップというもの。そして、デトロイト・タイガースに在籍していた現役のメジャーリーガーであるハワードを獲得した。ハワードは上記の通り来日メジャーリーガーの中で一番の実績を誇っていたため、連日マスコミに追われ、日常の些細な出来事でも即記事となるなど、その反響は大きかった。
太平洋入団から退団騒動