フランク・トーマス
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この項目では、野球選手について説明しています。ウォルト・ディズニー・カンパニーのアニメーターについては「フランク・トーマス (アニメーター)」をご覧ください。

フランク・トーマス
Frank Thomasシカゴ・ホワイトソックスでの現役時代
(1997年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ジョージア州コロンバス
生年月日 (1968-05-27) 1968年5月27日(55歳)
身長
体重6' 5" =約195.6 cm
275 lb =約124.7 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手指名打者
プロ入り1989年 MLBドラフト1巡目
初出場1990年8月12日
最終出場2008年8月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


コロンバス高等学校

オーバーン大学

シカゴ・ホワイトソックス (1990 - 2005)

オークランド・アスレチックス (2006)

トロント・ブルージェイズ (2007 - 2008)

オークランド・アスレチックス (2008)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2014年
得票率83.7%
選出方法BBWAA選出
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フランク・エドワード・トーマス(Frank Edward Thomas, 1968年5月27日 - ) は、アメリカ合衆国ジョージア州コロンバス出身の元プロ野球選手一塁手指名打者)。右投右打。愛称はビッグハート(Big Hurt)。
経歴
プロ入り前

高校時代からアメリカンフットボールと野球の注目選手だったトーマスは、フットボールの名門校であるオーバーン大学にスポーツ奨学生として進学。フットボールをプレーしたのは1年足らずでその後は野球に専念することとなる。1989年にはサウスイースタン・カンファレンスの最優秀選手に選出され、大学時代の通算49本塁打は学校新記録となった[1]
プロ入りとホワイトソックス時代

1989年MLBドラフト1巡目(全体7位)でシカゴ・ホワイトソックスに指名され入団。

1990年はAA級バーミングハム・バロンズで109試合に出場し、打率.323、18本塁打、71打点を記録し、ベースボール・アメリカ・マイナーリーグ年間最優秀選手賞を受賞。8月2日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビュー。名打撃コーチとして知られるウォルト・リニアックの指導を受け、打率.330、7本塁打、31打点、出塁率.454の好成績を残した。また、メジャーとマイナーで合計156四球を記録した。

1991年は打率.318、32本塁打、109打点を記録し、シルバースラッガー賞を初受賞。9月28日のシアトル・マリナーズ戦でルー・ブルー(英語版)のシーズン最多四球の球団記録127を60年ぶりに更新し、最終的に138まで伸ばした[2]1992年は打率.323、24本塁打、115打点、球団記録となるリーグ最多の46二塁打を記録[3]。四球はリーグ最多の122で、球団史上初めて2年連続100四球を記録した[4]

1993年は初めてオールスターゲームに選出された。打率.317、球団記録となる41本塁打[1]、128打点を記録し、チームの10年ぶりの地区優勝に大きく貢献。トロント・ブルージェイズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.353、両チーム最多の10四球を記録するが、2勝4敗で敗退しリーグ優勝はならなかった。オフにMVPを満票で受賞した[5]1994年は開幕から本塁打を量産。前半戦だけで32本塁打を記録し、オールスターゲームに2年連続で選出され、初の先発出場を果たした。8月7日には球団史上最速で100打点に到達した[6]ストライキの為シーズンが打ち切られたが、打率.353(リーグ3位)、38本塁打(リーグ2位)、101打点(リーグ3位タイ)と三冠王も狙える大活躍。また両リーグ最多の109四球、OPS1.217を記録した。MVPの投票でも2位以下を大きく引き離し、2年連続で受賞した。アメリカンリーグで2年連続のMVP受賞は1960年1961年ロジャー・マリス以来だった[6]

ストライキ明けの1995年は3年連続でオールスターゲームに選出され、前年に続いて先発出場し4回に本塁打を放った。2年連続で全試合出場を果たし、40本塁打、111打点を記録した。

1996年は7月11日に左足の疲労骨折で自身初の故障者リスト入りし、連続試合出場が346で途切れたが[1]アレックス・ロドリゲスに次ぐリーグ2位の打率.349、40本塁打、134打点を記録。1997年は打率.347で自身初の首位打者を獲得。35本塁打、125打点を記録し、7年連続で打率3割・20本塁打・100打点・100得点・100四球を達成し、テッド・ウィリアムズ1941年から1949年にかけて(兵役による3年間の中断を挟む)記録した6年連続のMLB記録を更新した[1]

1998年は29本塁打、109打点、109得点、110四球を記録したが、打率が.265と自己最低に終わった。プライベートでは離婚もあった。

1999年は打率こそ.305だったが、故障と不調で15本塁打、77打点に終わり、デビュー年以来9年ぶりに20本塁打・100打点を下回った。4月17日に通算1000四球、6月6日に通算1000打点、6月24日に通算1500本安打、8月7日に通算300本塁打を達成するなど次々に大台をクリアした[7]
オフには2年間の不振を払拭すべく、メジャー昇格時のホワイトソックスの打撃コーチだったウォルト・リニアックの下を訪れ、1ヶ月間の合宿を行なった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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