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『ジョン・フランクリン卿捜査を計画する北極委員会』、スティーブン・ピアース画、1851年、左からジョージ・バック、ウィリアム・エドワード・パリー、エドワード・バード、ジェイムズ・クラーク・ロス、ジョン・バロウ・ジュニア、フランシス・ボーフォート、 エドワード・サビーン、ウィリアム・アレクサンダー・ベイリー・ハミルトン、ジョン・リチャードソン、フレデリック・ウィリアム・ビーチージョン・バロウ卿、海軍本部副大臣として長く務めた間に北西航路の発見を提唱したジョン・フランクリン卿、遠征隊の指揮官、バロウはその選択を躊躇したジェームズ・フィッツジェームズ、遠征隊の士官、HMSエレバスを指揮F・R・M・クロージャー大佐、遠征隊の執行士官、HMSテラーを指揮ジェイン・グリフィン(後のフランクリン夫人)の肖像。1815年、24歳のときに描かれた。1828年にフランクリンと結婚、これはフランクリンがナイトに叙せられる1年前のことだった[1]
フランクリン遠征(フランクリンえんせい、英: Franklin's expedition)は、1845年に行われたイギリスの北極海探検航海。全隊員129名が失踪する結果となった。
フランクリン遠征は、イギリス海軍の士官であり、経験を積んだ探検家であったジョン・フランクリン海軍大佐が指揮していた。フランクリンは過去に3回北極海に遠征しており、その2回目と3回目は隊長を務め、4回目のこの遠征を引き受けたときは59歳だった。遠征の目的は、カナダ北極諸島を通ってヨーロッパとアジアを結ぶ北西航路の中で、まだ航海されていない部分を横断することだった。1845年にイングランドを出発後、遠征の初期に幾つかの問題が発生し、最終的に遠征隊の2隻の船がカナダ北極圏キングウィリアム島に近いビクトリア海峡で氷に閉ざされ、フランクリンを含む隊員129名全員が失踪した。
遠征隊がヨーロッパ人によって最後に視認されたのは1845年だった。イングランドの海軍本部はフランクリンの妻ジェインらに懇願されて、1848年、行方不明となっていた遠征隊を捜索するための部隊を出発させた。フランクリンの名声が高かったこと、および海軍本部が遠征隊の発見者に報酬を出すと発表したこともあって、多くの者達が捜索に加わり、1850年のある時点ではイギリス船11隻、アメリカ船2隻が関わっていた。これら船舶の幾らかは、乗組員3人の墓など、遠征隊の遺物が初めて発見されたビーチー島の東海岸沖に集中した。1854年、探検家ジョン・レイが犬ぞりでキングウィリアム島南東の海岸近くを調査しているときに、イヌイットからフランクリン隊の遺物を取得し、多くの白人が氷上の行軍中に飢え死に、仲間の肉を食べた跡まであったという末路についての話を聞いた。1859年にフランシス・レオポルド・マクリントックが率いた調査により、フランクリン遠征隊の隊員が船を捨てるに至った詳細を記したメモをキングウィリアム島で発見した。19世紀の残り期間も調査は続けられた。
1981年、アルバータ大学人類学教授オーウェン・ビーティが率いた科学者チームが、ビーチー島とキングウィリアム島でフランクリン遠征隊の隊員が残した墓、遺体など物的証拠に関する一連の科学的研究を始めた。ビーチー島で見つかった墓の隊員の死因は肺炎で、おそらくは結核で死んだ可能性が強く、さらに船の食料倉庫に収められていた缶詰のはんだ付けがまずかったために、鉛中毒で健康を悪化させた可能性があることも分かった。しかしその後、この鉛の出どころは缶詰の食料ではなく、遠征隊の船に取り付けられた水の蒸留装置だったことが示唆された[2]。キングウィリアム島で見つかった人骨の切断面からは、人肉食を行った痕跡がみられた。研究の全ての結果を合わせると、低体温症、飢え、鉛中毒、壊血病などの病気、さらには適切な衣類や栄養が無いままに過酷な環境に曝されたことで、隊員全員の死に繋がったことが推測された。
ヴィクトリア期のマスコミは、フランクリンの遠征隊が失敗し、人肉食の話が出てきたにも拘わらず、フランクリンを英雄扱いしていた。フランクリンに関する歌が書かれ、その彫像が生まれ故郷のロンドンとタスマニアに建てられ、北西航路の発見者にされた。フランクリン隊の話は歌、詩、短編小説、小説、さらにはテレビのドキュメンタリー番組など多くの作品の対象とされてきた。
背景「北西航路」も参照
ヨーロッパ人が、ヨーロッパからアジアまで最短距離(大圏航路)で結ぶ海の近道を探すのは、1492年のクリストファー・コロンブスの航海が始まりであり、その後は19世紀半ばまで、主にイングランドから一連の探検隊が極地を通る最短の海路(北西航路、北東航路)を探した。