フランクリン自伝
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フランクリン自伝(フランクリンじでん、The Autobiography of Benjamin Franklin)は、1771年から1790年の間にベンジャミン・フランクリンによって書かれた彼自身の人生の未完の記録の一般に流布している呼称である。しかし、フランクリン自身がその作品を彼の「回想録」と呼んでいたようである。フランクリンの死後、いろいろ込み入った出版の歴史があったものの、この作品は、従来書かれた自伝の最も有名で影響力のある例の1つになっている。フランクリンの彼の人生の説明は、彼がそれらを書いたさまざまな時期を反映して、4つの部分に分かれている。最初の3つの部分の間の物語には実際の中断があるが、パート3の物語は、執筆の中断なしにパート4に続いている。

『自伝』の1916年出版の版の「はじめに」で、編者F.W.パインはフランクリンの伝記は、フランクリンという「私たちの驚くべき歴史のすべての最も際立った業績を自力で成し遂げた人」を最大の模範として見ることができると書いている.[1]
要約
第一部

『自伝』の第一部は、当時(1771年)ニュージャージー州知事であったフランクリンの息子ウィリアムに宛てられている。イングランドのハンプシャー州トワイフォード在住のセント・アサフ司教の屋敷で、65歳になったフランクリンは、彼の息子に自分の父親の人生の出来事のいくつかを知っておくのも愉しいことではなかろうかと、語り始める。こうして彼は、1週間ほどのまとまった休暇の中で、ウイリアムのために筆を執るのだが、まず自分の祖父、伯父のベンジャミン、父親のジョサイア、母親アバイアのいくつかの逸話から書き始める。彼は、子ども時代、読書が好きだったこと、ボストンで印刷所を経営していた彼の兄ジェームズのところにに見習いとして働きに行ったこと、またジェームズはニューイングランド・クーラント新聞の発行元だったことなどを語る。ジョセフ・アディソンとリチャード・スティールがロンドンで発行していたスペクテイター紙の研究を通じて執筆スキルを向上させた後、彼は匿名の原稿を書き、夜に印刷所のドアの下に滑り込ませる。それを誰が書いたかも知らずに、ジェームズと彼の友人はその論文を賞賛し、それはクーラント紙に掲載され、ベンがより多くのエッセイ(匿名「沈黙のドグッド」によるエッセイ)を作成することを奨励する。ベンが、自分がその著者であることを告白したとき、ジェームズは彼のエッセイの評判がベンをあまりにも天狗にさせるのではないかと思い、憤慨する。ジェームズとベンはそれ以来、頻繁に衝突し、ベンはジェームズの下で働くことから逃げ出すすべを模索するようになる。

結局、ジェームズは植民地議会で問題に巻き込まれ、短期間勾留された上に譴責を受け、以後、新聞の刊行を禁じられた。ジェームズと彼の友人たちは、ジェームズはまだ官憲の監視下にあるが、クーラント紙は今後ベンの名前でなら出せるのではないかと思いつく。ただ、奉公人の名前で発行しているというのも、おかしな話なのでジェームズはベンの奉公人としての年季契約の裏に完全に解雇したということを明記して私に返し、いざ問いただされたらそれを見せるということになった。ジェームズはそれでもベンを使用人として働かせる権利は確保しておきたいもので、年季奉公の残りの期間についての契約書を新しく作成して、ベンに署名させ、これは公にはしないでおくということになった。そのうちにまた、兄弟の間で新たな意見の不一致が生じ、ベンはジェームズのもとを去ることを選択し、ジェームズもまさか新しい秘密の契約書を持ち出す度胸はないだろうと、高をくくって堂々と辞めさせてくれと主張した。(「このような相手の弱みにつけ込むようなやり方は公正ではない」と、フランクリンは反省の意を示す。)

それでも、ジェームズはベンがボストンの他の印刷所で働けないようにしてやろうと、あちこちに悪口を行って回ったので、仕事の口は見つからなかった。そこで、父や兄弟の知らないうちに、ベンはニューヨーク行きの船にこっそり乗り込んだ。

最初に訪ねた印刷屋のウィリアム・ブラッドフォード(1663年 - 1752年) は、人手が十分あって雇うことができなかったので、フィラデルフィアで印刷所をやっている息子のアンドリューが、最近職人頭が、急逝して困っているので、そこでなら使ってくれるだろうと紹介してくれた。ベンがフィラデルフィアに到着するまでに、アンドリュー・ブラッドフォードはすでに別の従業員を雇ってしまっていたが、ベンを雇えそうな市内の別の印刷業者サミュエル・キーマーを紹介してくれる。知事のウィリアム・キース卿はフランクリンに気づき、彼が自身の事業を始めるのなら後援しようと申し出てくれる。キースの勧めで、フランクリンは印刷物を求めてロンドンに行くが、ロンドンに着いてみて、キースが約束の推薦状を書いておらず、「彼を知っている人は誰も彼のことを信用していない」ことに気付く。フランクリンは、フィラデルフィアに戻る機会が見つかるまで、ロンドンでクエーカー教徒の商人のトーマス・デナムの助手として働くことになる。しかし、デナムが病気になって死ぬと、彼はアメリカに戻り、キーマーの店に復職する。ケイマーはすぐにフランクリンの賃金が高すぎると感じ、喧嘩沙汰になり、フランクリンを辞めさせる。この時点で、同僚のヒュー・メレディスは、フランクリンと彼がパートナーシップを結んで独自の印刷店を立ち上げようと持ちかける。これはメレディスの父親からの金銭的援助によるものだが、メレディスは印刷業者として大した経験もなく、金はお酒に消えていくため、ほとんどの仕事はフランクリンがやらねばならなかった。

彼らは事業を立ち上げ、新しい新聞を始める計画をするが、キーマーはこの計画を聞いて、彼の新聞、ペンシルベニア・ガゼットを急遽出すことにする。フランクリンがキーマーから新聞を買い取り、「非常に儲かる」ところまで持っいくのに、1年の4分の3もの期間を必要とした。(サタデー・イブニング・ポストは、その歴史をフランクリンのペンシルベニア・ガゼットにまでさかのぼる。)2人のパートナーシップは、ペンシルベニア議会の指定印刷業者としての契約も勝ち取る。ところが、ヒュー・メレディスの父親が経済的に破綻し、パートナーシップの支援を継続できなくなり、2人の友人が、フランクリンに彼がビジネスを続けるのに必要なお金を貸すことを別々に申し出てくれる。メレディスは、ノースカロライナに行くことになり、パートナーシップは友好的に解消し、そしてフランクリンは各友人から必要な金額の半分を受け取り、彼自身の名前で彼のビジネスを継続することになる。この間にキーマーもなくなり、フィラデルフィアでは、老ブラッドフォード以外商売敵はいなくなる。1730年、彼はロンドンに行く前知り合っていたデボラ・リード嬢と結婚し、その後、ジャントーの助けを借りて、フィラデルフィアの会員制図書館の計画の原案を立ち上げる。ここで、第一部は終了し、フランクリンの執筆に「独立戦争が始まり、執筆は中断した」と記したメモがあり、ここから以降は一般の読者むけに執筆されたとの注記がある。
第二部

第二部は、1780年代初頭、フランス、パリ近郊滞在中のフランクリンが受け取った2通の手紙で始まる。いずれの手紙も、第一部を読んだ友人が「自伝」の続編の執筆を続けるように彼に促すものであった。(フランクリンは敢えて語ってはいないが、第一部を執筆した動機でもあった息子が、父親がアメリカ独立運動側に立っているにもかかわらず、イギリスの王冠の側に立っていて、親子の間で確執が起きていたことも背景にある。)パリ郊外のパッシー村で、フランクリンは1784年に執筆を再開し、彼の公共図書館計画のより詳細な説明を始める。それから彼は彼の「道徳的完全性に到達するという大胆で骨の折れるプロジェクト」について議論し、彼が自分自身で完全にしたい13の美徳を箇条書きにする。彼は毎週の曜日ごとに縦列を、更にそれを13の赤い横線を入れ、各行の初めに美徳の頭文字を入れた。各行の相当欄にもしその日、その美徳について犯した過ちがあれば、それを黒点で記入することにした[2]。これらの美徳の中で、彼は秩序が彼にとって維持するのが最も難しいことに気づく。彼は最終的に完璧さというものが、達成できるべきものでないことを知るが、この試みのおかげで自分自身がより良くそしてより幸せに思えるようになる。また、美徳のリストはもともとは12項目だったのだが、自分の欠点として人が、高慢を指摘するので、謙虚という徳目を追加した。パシーでの執筆は、1784年で終わる。
第三部

1788年8月、フランクリンはフィラデルフィアで再び執筆を開始する。しかし、独立戦争で多くの資料が失われたため、そうした資料を使って書くことが難しくなったと嘆く。かろうじて残った1730年代からの彼の小文のいくつかを引用する。一つは、彼が当時すべての宗教の「本質」であると考えた「意図された信条の実体」である。彼はこれを宗派の基礎として意図していたが、自分はプロジェクトを追求しなかったと言う。

1732年に、フランクリンはリチャード・ソンダースという仮名で「貧しいリチャードの暦」を出版し、それは非常に成功した。これは毎年1万部近く売れ、それが25年間続き、相当な収益を上げた。1734年、アイルランドからサミュエル・ヘンフィル牧師という説教者がやってきた。非常に優れた説教をしたので、フランクリンは彼を支援し、彼に代わってパンフレットを書いてやる。しかし、誰かがヘンプヒルが彼の説教の一部を他人から盗用しているといい、味方の多くも愛想を尽かして離れていった。フランクリンは彼自身の構成の貧弱な説教よりも他人からの良い説教を聞きたいと言ってこれを支持したが、非難する人たちが多数派で、牧師は他の土地に移り、フランクリンは協会に行くのを辞めた。

1733年、フランクリンは外国語の勉強を始め、フランス語はかなりマスターし、イタリア語も始めた。


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