フランクフルト憲法
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ドイツ国憲法
(パウロ教会憲法)
(フランクフルト憲法)
Verfassung des Deutschen Reiches
(Paulskirchenverfassung)
(Frankfurter Reichsverfassung)
憲法採択150年の記念切手(1998年)
施行区域 ドイツ連邦
施行未施行
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パウロ教会憲法(パウロきょうかいけんぽう、ドイツ語: Paulskirchenverfassung)は、1848年フランクフルト国民議会において採択された統一ドイツ憲法。フランクフルト憲法とも呼ばれる。

フランクフルト国民議会が開かれていた場所であるパウロ教会の名をとってこう呼ばれている。

正式にはドイツ国憲法(ドイツ語: Verfassung des Deutschen Reiches)といい、後のヴァイマル憲法にも影響を与えた。
経緯
三月革命

1848年にフランス二月革命が発生し、ルイ・フィリップ七月王政が倒れると、3月に入り、バーデンの一角から起こったドイツ革命(バーデン革命(ドイツ語版))がドイツ全国に波及した(ドイツにおける1848年革命[1]オーストリアにおいては、専制政治の徴表であったメッテルニヒが国外に逃亡するに至った[1]。これを「三月革命」(Marzrevolution)と称する[1]

この三月革命は、ドイツ国民が立憲政治へと向かう運動であったとともに、ドイツ統一への運動でもあった[1]。立憲政治に対する要求は、三月革命によって、ある程度実現された[1]。すなわち、ドイツ各邦は、程度の差こそあれ、いずれも憲法を改正してその国民を国政に参加させる道を開き、国民の公権に関する規定を増加させて、警察国家から法治国家へと移ろうとしていた[2]。これを「三月の成果」(Marzerrungenschaft)という[3]
ハイデルベルク会議

ドイツ革命におけるドイツ統一運動は、1848年3月5日のハイデルベルク会議に始まる[3]。この日、ハイデルベルクの古城に、ドイツ統一運動の指導者を自任する者51名が集まり、将来の方針を協議した[3]。そのうち、バーデン出身者が20名を占め、カール・マーティ(ドイツ語版)、フリードリヒ・ダニエル・バッサーマン(ドイツ語版)、カール・テオドール・ヴェルカー(ドイツ語版)、フリードリヒ・ヘッカー(ドイツ語版)らの名士が含まれていた[3]

ハイデルベルク会議においては、次の事項が決議された[4]
3月30日を期して、フランクフルトに予備議会を召集すること。

予備議会に召集される者は、(1)ドイツ同盟諸国において、現に立法機関の議員であり、又は議員であった者のほか、(2)ドイツ国民の信任ある者とすること。

予備議会召集のため、7名からなる委員会(七人委員会)を設けること。

これは、フランクフルトに革命議会を召集し、ドイツ国民自らその憲法を制定しようとするものであって、革命の進路は、すでにこのハイデルベルク会議において決せられていた[4]
同盟議会の対策

ドイツ同盟議会(ドイツ語版)は、形勢ここに至っては弾圧手段をもってこれを防止することが到底できないことを知り、3月3日の決議をもって、出版物の検閲制度(de:Zwanzig-Bogen-Klausel)を撤回し、3月9日の決議をもって、ドイツ統一の国民運動を徴表する黒・赤・金(ドイツ語版)の三色をもってドイツ同盟の国旗及び紋章としたが、3月10日の決議をもって、次のように決し、ついにドイツ国民の代表者を同盟の機関として参加させるに至った[5]
一般の信任ある者(Manner des allgemeinen Vertrauens)17名を召集し、同盟の組織改正案を諮詢すること(mit gutachtlichem Beirat)。

この17名(以下、仮に「国民代表委員」と称する。)は、特別委員会(十七人委員会)を構成し、又は同盟議会の憲法改正委員会と合同会を開くこと。

国民代表委員の選任は、よく時勢に鑑み、国民的基礎(auf wahrhaft zeitgemasser und nationaler Grundlage)によること(3月25日の追加決議)。

このようなドイツ同盟側の譲歩は、いよいよ革命運動を盛んにし、それゆえ、3月31日から4月4日にわたるフランクフルトの予備議会は、全く私的な会合であったにもかかわらず、全ドイツ国民議会であるかのような盛況を示した[6]
フランクフルト予備議会後にフランクフルト国民議会が開かれることとなる、パウル教会における予備議会の様子

フランクフルト予備議会(ドイツ語版)(Vorparlament)は、3月31日をもって、フランクフルトのパウル教会内で開催された[7]。招待に応じた者は、約500名であり、そのうちプロイセンが141名を送ったのに対し、オーストリアはわずか2名であったことは、両国のドイツ統一に対する意向を知ることができる[7]

予備議会は、4月4日まで継続して、次の事項を議決した[8]
5月1日をもって、フランクフルトに憲法議会(Konstituierende Nationalversammlung)を召集すること。

国民議会の議員は、人口5万人につき1名とし、人口5万人に満たない小国は、1名を選出すること。

国民議会の召集までは、50名をもって組織する継続委員会(permanenter Ausschuss、五十人委員会(ドイツ語版))を設置すること。継続委員会は、国民議会の召集に至るまで、同盟議会と協力して、ドイツ国民の利益のために、同盟の事務に参画し、必要と認めるときは、直ちに予備議会を召集するものとすること。

さらに、予備議会においては、国民の基本権に関する若干の原則が、早くも決議された[9]

しかしながら、最後の会議に至って、「憲法議会」という語そのものについて問題を生じた[9]。すなわち、憲法議会のみが憲法制定の権限を有するのか、又は各邦政府の裁可若しくはこれに類するものを必要とするかという問題である[9]。この点について、予備議会は、憲法議会のみが憲法制定の権限を有するものとした[9]。そして、予備議会において選出された50名の継続委員会は、有為の人士を集めていたため、巧みに活動し、ついにドイツ同盟主権者の全権委員会である同盟議会を完全に屈服させることとなった[9]フリードリヒ・ヘッカー

他方、予備議会における極左派は、ドイツの将来の政体が民主国たるべきことを指導原理としていたことから、予備議会がこの点について白紙をもって臨むと、不満足であるとして議会を脱退し、直接行動へと移った[9]。とりわけ、フリードリヒ・ヘッカーとグスタフ・シュトルーヴェ(ドイツ語版)がその主導者であり、ヘッカーは、4月にバーデンにおいて義勇軍を起こし、反乱を企てた[10]。これをヘッカー蜂起(ドイツ語版)と称する[11]。ヘッカーは、間もなく破れてアメリカへと逃れ、シュトルーヴェは、後に南ドイツのコンスタンツを中心として反乱を起こしたが、これも成功しなかった[11]。この極左派の直接行動は、ドイツ各邦政府に弾圧の口実を与えることとなった[11]


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