フランクフルト学派(フランクフルトがくは、ドイツ語: Frankfurter Schule)は、ルカーチ、グラムシの理論をベースにマルクス主義を進化させ、これにヘーゲルの弁証法とフロイトの精神分析理論の融合を試みた、批判理論によって啓蒙主義を批判する社会理論や哲学を研究したグループの他称。
道具的理性という概念を提唱し、社会の近代化によって人間が自然(人間を含む)を支配し、搾取することを批判した。 20世紀前半に主流であったソ連型社会主義、スターリニズムとは一定の距離を置いて新しい形のマルクス主義を模索、一部は後に新マルクス主義と呼ばれる潮流の源流となり、1960年代には新左翼運動にも影響を与えた。 1930年代、ワイマールドイツでナチスが政権を獲得するとメンバーの多くが亡命、やがて活動の中心がアメリカに移り、第二次世界大戦時には米国政府機関で活動、ドイツと日本の戦時情報分析、戦後処理と占領政策の策定、憲法策定に関わった。 戦後は研究所関係者の多くが西ドイツに帰国、ホルクハイマーとアドルノがフランクフルト大学で社会研究所を再興し、再びドイツが活動の中心となったが、一部はアメリカに残り著作・研究活動を続けた。 社会研究所発足から90年以上経った現在もこの学派は活動し、ドイツを中心に第3世代?第4世代の学者たちが活動している。 フランクフルト学派に関連して「文化的マルクス主義」と呼ばれる陰謀論がある[1][2][3][4][5]。この陰謀論は右派の政治家や宗教指導者、政治コメンテーター、白人至上主義のテロリストによって支持されている[6]。 1922年夏、ドイツ・テューリンゲン州のイルメナウで第1回マルクス主義研究集会が開催された。 主催者はフランクフルト大学のフェリクス・ヴァイル
概要
沿革
発端
フェリクス・ヴァイルは第2回マルクス主義研究集会を計画したが、やがて独立した研究機関の設置の必要性を強く感じ、彼の父の出資を受けてフランクフルト社会研究所を設置する。
年表
第二次大戦前
1924年6月24日、マルクス主義の研究を継続する機関「社会研究所」(Institut fur Sozialforschung)が設置され、カール・グリュンベルク(ドイツ語版)が所長に就任した。
1927年、社会研究所初代所長のカール・グリュンベルクが病気で倒れる。
1930年、マックス・ホルクハイマーがフランクフルト大学正教授に就任、同時に社会研究所の2代目所長に就任。
1931年1月、マックス・ホルクハイマーの社会研究所所長就任公開演説が行われる。同年ホルクハイマーはナチの台頭により社会研究所の国外分散を検討、最終的にジュネーブに設置。また社会研究所基金は後にオランダに移される。
1932年の暮、ヘルベルト・マルクーゼが社会研究所所員になる。
1933年1月、フランクフルト社会研究所はナチス突撃隊の襲撃を受ける。6万冊に及ぶ蔵書が押収され3月までに研究所は閉鎖。
2月、ホルクハイマーがジュネーブに移住する。この時欧州各地に分室や研究者が分散した事から「国際社会研究協会」という名称になり、ホルクハイマーとポロックが共同で会長になる。
4月、ホルクハイマーがフランクフルト大学の教授職を解任される。フランツ・ノイマンが社会民主党左派の活動を行って逮捕される(後釈放され1ヶ月後にロンドンに逃れる)。
1934年、スイスにおいてもナチの手が伸びており危険と判断、ロンドンとパリに社会研究所分室を設置。同時期にホルクハイマーは渡米、ニューヨークを訪問する。当時コロンビア大学の学長だったニコラス・バトラーからコロンビア大学への社会研究所移転の提案を受ける。同年夏?秋にかけて社会研究所移転および所員のアメリカ亡命が始まる。ホルクハイマーがニューヨークに移住。
1935年、フェリクス・ヴァイルがニューヨークで再び社会研究所に参加、改めて10万ドルを寄贈したことで研究所は財政的に持ち直す。
1936年、「権威と家族」出版。フランツ・ノイマンが渡米、社会研究所に参加。後にアメリカの戦時機関である「経済戦争委員会」のコンサルタントに就任。
1937年、社会研究所ロンドン分室閉鎖。パリ在住のヴァルター・ベンヤミンが社会研究所に参加。
1938年2月、テオドール・アドルノが最初の亡命先であるイギリス・ロンドンからニューヨークに移住、社会研究所に参加する。
第二次大戦中
1940年、マックス・ホルクハイマーがニューヨークからカリフォルニアに移る。これを追うようにアドルノもカルフォルニアに移住、この時期に代表的著作の一つ「啓蒙の弁証法」がホルクハイマーとアドルノの共著で執筆開始。
9月24日 ナチスに追われたヴァルター・ベンヤミンが逃亡中ピレネーの山中で服毒自殺(近年暗殺説もあり)。
この頃社会研究所は財政難に陥いった。アメリカに亡命した多くの研究所メンバーは生活に困窮し、様々な副業(大学の臨時講師、法律関係のアドバイザーなど)でしのいだが、やがて戦時において優秀な頭脳を求める多数の政府機関が彼らの持つ学問的スキルや知識、情報を求めてリクルートした。
一部はO,S,Sの中枢で活動、ドイツと日本の情報分析と戦後政策の策定に深く関与した。とくにドイツの戦後政策策定に関してはフランツ・ノイマン、ヘルベルト・マルクーゼらが関わっており、ニュルンベルク裁判ではフランツ・ノイマンが法学の知識を活かして深く関与した。
(フランツ・ノイマンについては1995年に公開されたヴェノナファイルによってソヴィエトのスパイ(暗号電文上のコードネームは“ラフ”)として活動していたでことが判明している)
1942年、フランツ・ノイマンが戦略諜報局(OSS。CIAの前身)調査分析中欧課に入り、対独情報分析にあたる一方で「ビヒモス」(1944年に増補版刊行)を出版する。
1945年、フランツ・ノイマンがアメリカ合衆国国務省のドイツ調査部門の責任者に就任。