フランクフルト・ゲットー
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フランクフルト・ゲットー(: Frankfurter Ghetto)は、1462年から1796年にかけて神聖ローマ帝国ドイツ)の帝国自由都市フランクフルト・アム・マインに置かれていたゲットー(ユダヤ人隔離居住区)である。正式名称は「フランクフルト・ユーデンガッセ」(Frankfurter Judengasse)という[1]
歴史
前史

記録上最初にフランクフルトユダヤ人の存在が確認されるのは1150年頃である[2]

13世紀中には神聖ローマ帝国のユダヤ人は「王庫の従属民」たる法的地位を確立し、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在となった。ユダヤ人は皇帝の保護を受ける代わりに皇帝にユダヤ人税(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。ユダヤ人は皇帝の収入の大きな部分を占める重要な「私有財産」だった。しかし王庫の金が尽きるとしばしばユダヤ人税徴税権が担保抵当に出された。フランクフルト・ユダヤ人への徴税権も皇帝カール4世1372年にフランクフルト市に売却している[3]

フランクフルト・ユダヤ人はゲットーが創設されるまでは、市内の聖バルトロメウス大聖堂(ドイツ語版)の南にあるマイン河畔にある地区(ここにはザクセンハウゼン地区(ドイツ語版)に通じる橋がかかる)に固まって暮らしていた。このユダヤ人街は後に作られるゲットーと異なり、ユダヤ人たちが自ら形成し(ここで暮らす義務はなかった)、また非ユダヤ人の市民もユダヤ人街で一緒に暮らしていた[1][4]

1241年5月、原因はよく分かっていないが、ユダヤ人街がキリスト教徒の襲撃・虐殺を受けた。この結果、フランクフルト・ユダヤ人は一度壊滅した。1255年頃にユダヤ人が再びフランクフルトに集まってきて、大聖堂南のユダヤ人街を再建した。1288年にはユダヤ人団体(ゲマインデ)の名称が証書に現れるようになった。1311年の市民台帳にはユダヤ人も記載されている。ユダヤ人には長期滞在と居住の自由、生業が保障されていたが、市政への参加は認められなかった[5]

1348年から1349年にかけてヨーロッパは人口の三分の一が死亡する史上最大規模の黒死病に襲われた。ユダヤ人の死亡率が低かったことなどから「ユダヤ人が井戸に毒をまいた」というデマがヨーロッパ中に急速に広まり、ヨーロッパ、特に神聖ローマ帝国(ドイツ)においてユダヤ人虐殺が吹き荒れた[6]。フランクフルトでも黒死病の伝染が始まるとともに、鞭打苦行者(英語版)[注釈 1]の集団がマイン川上流から現れ、フランクフルト市内のユダヤ人街を襲撃した。フランクフルト市民が彼らを撃退したが、結局ユダヤ人街は放火され、虐殺され、フランクフルト・ユダヤ人は再び壊滅した[8]

1360年より再度ユダヤ人がフランクフルトへ移住することが認められ、大聖堂南のユダヤ人街やユダヤ人団体が再建された[9]。しかし黒死病後のユダヤ人の立場は完全に悪化していた。ユダヤ人はもはや市民台帳に記載されなくなり、別の台帳に記載され、様々な制限を課せられるようになった[10]
ゲットー創設1628年頃、住居が密集している弧を描いた通りがゲットー

フランクフルト・ゲットーが創設されることとなる15世紀中頃は、ドイツ、そしてヨーロッパ・キリスト教社会にとって危機的な時代だった。神聖ローマ帝国は、地方諸権力が成長して弱体化し、恒常的な財政危機に悩まされた。教皇権や教会が失墜し、ボヘミアではフス派が蜂起。東地中海ではイスラム教オスマン帝国コンスタンティノープルを陥落させ、ヨーロッパ侵略の機会を狙っていた。フランクフルトでも対イスラム十字軍結成の資金の名目で免罪符が盛んに売られた時期だった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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