フランキー・ヴァリ
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フランキー・ヴァリ
2013年、ビバリーヒルズでのコンサート
基本情報
出生名フランチェスコ・スティーブン・カステルッチオ
生誕 (1934-05-03) 1934年5月3日(90歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニュージャージー州ニューアーク
ジャンルポップブルー・アイド・ソウルロックR&B
職業歌手俳優
担当楽器リードボーカル
活動期間1953年 -
レーベルフィリップスモータウン、プライベート・ストック、ワーナーMCAユニバーサル
共同作業者フォー・シーズンズ、ボブ・クルー

フランキー・ヴァリ(Frankie Valli、1934年5月3日 - )は、アメリカ合衆国ポピュラー・シンガー。1960年に結成されたフォー・シーズンズのリード・ヴォーカルとして一世を風靡しソロでも成功[1]。非常に鋭く力強いファルセットを生かした唯一無二の魅力的な歌声でよく知られている[1]。独特の声色を持つヴァリの声域はとても広く、その高音はポップ史上最も高い男性ファルセットだと言われている(2001年時点)[1]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」においては第80位[2]

ヒット曲は、トップ40にフォー・シーズンズとして29曲、別名であるワンダー・フーとして1曲、ソロとして9曲がランクインしている。フォー・シーズンズの一員として全米第1位の曲は「シェリー」(1962年)、「恋のヤセがまん (Big Girls Don't Cry)」(1962年)、「恋のハリキリ・ボーイ (Walk Like a Man)」(1963年)、「悲しきラグ・ドール (Rag Doll)」(1964年)、「1963年12月 (あのすばらしき夜)」(1975年)などがある。

1967年、ヴァリのソロ「君の瞳に恋してる」は第2位となった。1966年からソロでレコーディングしていた「ユーアー・レディ・ナウ (You're Ready Now)」はノーザン・ソウルとしてイギリスで驚異的にヒットし、1970年12月、イギリスのポップ・チャートで第11位となった。他にソロとして「瞳の面影 (My Eyes Adored You)」(1974年)、「グリース(Grease)」(1978年)などが第1位となった。国内では「瞳の面影」を沢田研二西城秀樹がカバーしている。

フォー・シーズンズのオリジナル・メンバーであるヴァリ、トミー・デヴィート、ニック・マッシ、ボブ・ゴーディオは、1990年にロックの殿堂[3]、1999年にヴォーカル・グループの殿堂に[4]殿堂入りした。
生い立ち

1934年に5月3日にニュージャージー州ニューアークのファースト・ウォードにおいて、理容師の父親・アンソニー・カステルッチオ、専業主婦の母親・メアリー・リナルディの息子として生まれ[5][6]、フランチェスコ・スティーブン・カステルッチオ (Francesco Stephen Castelluccio)と名付けられた[7]。英語読みではフランシスとも言う[1]

ニューアークの人種が混在する学校に通っていたフランチェスコはジャズR&Bに親しみ[1]、7歳の頃には、母親に連れられニューヨークのパラマウント・シアター(英語版)でフランク・シナトラの公演を観て以来、歌手を志すようになった[8]

音楽業界に身を置いたフランチェスコは、1953年にバラード「マイ・マザーズ・アイ (My Mother’s Eye)」でデビューするが、初期の頃の芸名「フランキー・ヴァレイ」の綴りは、Frankie Valleyで、これは彼が敬愛していた女性カントリー歌手の「テキサス・ジーン・ヴァリ (Texas Jean Valli)」が由来である[6] [1]。後に、Valleとスペルを変えたり、「フランキー・タイラー (Frankie Tyler)」と名乗ったりしたこともあったが、最終的に元のヴァリに戻り、綴りはFrankie Valliに落ちついた[1][6]。音楽業界で自立するまで理容師として働いた[8]

多くのセレブリティ同様、彼の生年については疑惑があった。2007年に彼が所属するユニバーサル・レコードによる彼の公式ホームページに掲載されるまで彼がこの問題について語ることはなかった[8]。それまでの公式プロフィールには1937年と書かれていた。若い観客にアピールするための措置であったと推測される。ベア・ファミリー・レコード出版『The Four Lovers』 (BCD 15424)およびThe Smoking Gun で閲覧可能な1965年の顔写真によると1934年生まれとなっている[9]
経歴「フォー・シーズンズ#来歴」も参照
1950年代から1960年代

1951年、フランチェスコ・スティーブン・カステルッチオ(フランキー・ヴァリの本名)は、ニッキー・デヴィート、トミー・デヴィート、ニック・マシオシで結成された「ヴァラエティ・トリオ」と共にプロとしての活動を開始した。フランチェスコの歌声を聴いた彼らがフランチェスコを自分達のグループに参加を要請したのである。

1952年後期、ヴァラエティ・トリオは解散し、フランチェスコとトミー・デヴィートはニュージャージー州ニューブランズウィックにあるザ・スタンドの座付きバンドの一員となった。ここでフランチェスコはベースと歌を担当した。

1953年、フランチェスコは、「フランキー・ヴァレイ (Frankie Valley)」の芸名で、1枚目のシングル「マイ・マザーズ・アイ (My Mother’s Eye)」を発表した。以降、敬愛する女性歌手テキサス・ジーン・ヴァリの姓の綴りを様々に変えて使用した。この頃ヴァリとトミー・デヴィートはザ・スタンドの座付きバンドを辞め、ハンク・メジャースキ、フランク・カトゥーン、ビリー・トンプソンと共に「ヴァリアトーンズ」を結成した。1956年、女性歌手のバック演奏のオーディションでニューヨークのレコード会社のピーター・ポールの目に留まり、1週間後RCAレコードのオーディションを受けることとなった。

彼等は「フォー・ラヴァーズ (Four Lovers)」と名を変え、何枚かのシングルとアルバム1枚分の楽曲をレコーディングした。1956年、「ユーアー・ザ・アップル・オブ・マイ・アイ (You're the Apple of My Eye)」を発表し、小ヒットとなった[1]。その後のシングルは売れなかったが、アルバム『ジョイライド (Joyride)』は作らせてもらえた[1]。1958年、ニッキー・デヴィートとハンク・メジャースキが脱退し、ニック・マシオシ(現ニック・マッシ)とヒュー・ギャリティが参加した。マッシはバンドを出たり入ったりしており、時々チャーリー・カレロがアコーディオン奏者として参加した。

1959年、後に俳優として大成するヴァリの旧知の友人ジョー・ペシ(当時は周辺関係者のパシリだった)から紹介されたキーボード奏者のボブ・ゴーディオがメンバーとなった[1]。ヴァリとゴーディオはすぐに意気投合し、2人がグループのリーダーとなった[1]


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