フライング・タイガース
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1941年、昆明におけるフライングタイガース

フライングタイガース(ズ)(Flying Tigers、[?fla??? ?ta???(r)z][1]簡体字: ?虎?; 繁体字: 飛虎隊; ?音: F?i H? Dui)は日中戦争時に中国国民党軍を支援したアメリカ合衆国義勇軍 (American Volunteer Group; AVG) の愛称である。
日中戦争の勃発

1937年盧溝橋事件から日本と中華民国との間では急激に緊張が高まりつつあった。両国との間では戦闘と交渉が何度も行われたが和平調停は成立せず、第二次上海事変により両国は本格的に戦闘状態(日中戦争)に突入した。戦争は1938年に入るとさらに激しさを増し、日本軍による海上封鎖と航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であったポルトガル領マカオが事実上日本軍の手に渡った。日本軍はさらに中国沿岸の港を全て封鎖し、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の封鎖に成功した。

国民党政府は中国内陸部の 重慶に首都を移動させ抵抗を続けていたが、海上補給路を断たれた後の補給はフランス領インドシナ(=「仏印」、現ベトナムラオスカンボジア)、やイギリスビルマタイ王国などから陸路と空路で細々としか行えなくなった(この「援?ルート(仏印ルート)」を切断するため、日本軍はのちに北部仏印進駐を実施した)。

1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったが、その間国民党軍は友好関係にあったソ連製の航空機により日本軍の航空機に僅かに損害を与えていた。しかし爆撃機主体の攻撃だったことや、1940年の秋頃から投入してきた日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により中国空軍の形勢は一気に不利になり、殆どの戦線で活動を停止。南京陥落後、国民党政府の臨時首都だった重慶にも日本軍の圧力が高まった。
空軍参謀クレア・L・シェンノートの登場アメリカ陸軍航空隊のシェンノート、中華民国の宋美齢?介石

1930年代後半、?介石は自国の軍備が他国に比べて遅れたため、外国の新型兵器を購入、アメリカやドイツから外国人軍事顧問を雇い入れ軍備の近代化を図った。

盧溝橋事件の2ヶ月前に当たる1937年5月1日、アメリカのルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートは、国民党航空委員会秘書長で?介石夫人の宋美齢による呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官・顧問として雇い入れられた。当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが、?介石は空戦経験の豊富な彼を航空参謀長の大佐として遇した。月給1000ドル、現代の日本では1200万円に相当した。[2]

着任したシェンノートは中華民国内を視察、日本軍航空隊への対策を思案した。1937年、それまで爆撃機を主軸にしていた空軍に対し、「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中華民国空軍はこの脅威を退けることが出来る」と?介石に具申した。この計画は、米国と協議の結果、承認された。

派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コーコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由する形をとった。中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、国民党軍が資金を使い部隊を編成した。1940年の夏にシェンノートは優れたパイロットを集めるために米国に一時帰国した。
アメリカ合衆国義勇軍 (American Volunteer Group, AVG) の誕生クレア・リー・シェンノート

本国到着後、ルーズベルトの後ろ盾を得て、戦闘機100機とパイロット100名、200名の地上要員を米軍内から集める権利を取得、その後米軍内でパイロットを募集開始した。ただし日米はいまだ中立関係であったため採用されたパイロットは形式上義勇兵となる形になるため、米軍を一旦退役する必要があった。

そしてAVGとしての活動中、以下の待遇が約束された。

軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給

中国での軍務の終了後、元の階級での復帰を約束

毎月600ドルを全てのパイロットに支給

月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給

その結果シェンノートの下にはかつて共に飛んだ「フライング・トラピーズ」(陸軍統括の飛行部隊)の隊員など、それなりの熟練者も入隊した。しかし最終的には隊員の基準は当初よりも落とさざるを得なかった。さらに、「日本軍の飛行機は旧式である」「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がない」と楽観的な見通しを述べて募集する面接官もいた[3]。さらに募集した隊員の中には操縦未熟練者も多かったために、その後の中国現地にて再訓練に時間を要した。

最終的にAVGのパイロットは39州から海軍50名・陸軍35名・海兵隊15名の合計100名で編成。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットは1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者が多かった。そこでシェンノートは本国で提唱していたが無視され続けてきた一撃離脱戦法を、隊員たちに徹底的に訓練させた。しかし訓練は非常に厳しく、集まったパイロット40名を含む136名が部隊を去り、最終的にパイロット70名、地上勤務員104名となってしまった[4]。そのため、最終的に半数は現地の中国人から採用して訓練した部隊となった。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、世界からはワシントンD.C.に置かれた「中国援助オフィス」が設立した「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。
飛虎の活躍隊員のフライトジャケットの背中に貼人物証明書(上)と部隊章(下)

シェンノートらAVGのメンバーは民間人として、友好国イギリスの植民地ビルマに向け5?6週間かけて渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊。ラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とした。残りのAVGメンバーも1941年の11月に到着した戦闘機「カーチス P-40C型」の組み立てを始めた。シェンノートはまず部隊全体を3つに分けた。

第一戦隊「アダム&イヴ (1st Squadron Adam & Eves)」[5]

第二戦隊「パンダ・ベアーズ (2nd Squadron Panda Bears)」

第三戦隊「地獄の天使達 (3rd Squadron Hell's Angels)」

AVG隊員ロット全員のフライトジャケット(当時は耐久力のある合成繊維はまだ存在せずのみ)の背中には「来華助戦洋人 軍民一体救護」(この者は中華民国軍を援助するために来た西洋人である、軍・民無関係にこの者を支援すべき)と書かれた認証「ブラッドチット」が縫い付けられた(右図参照)。不時着や撃墜などで帰投できない場合、現地民に救助を願う証票にもなった。

中華民国軍への援助物資の荷揚げ港であるビルマのラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援?ルート(「ビルマ・ロード」)上空の制空権確保がAVGの目的だった。シェンノートが立案した作戦は「防御追撃戦略」と言われ、敵爆撃機が目標に到着する直前に迎撃機を発進させるもの。しかし後から着任した上官は爆撃機重視の見解であり、戦闘機重視のシェンノートと激しく対立。

中でも中国戦区参謀長スティルウェル陸軍中将はシェンノートに対し、「航空戦力では敵地上軍には損害は与えられない、爆撃機こそが唯一打撃を与えられる物だ、また戦争に勝利するのは塹壕にこもった歩兵である」と豪語、これに対し、「塹壕に篭った歩兵など何処にもいません」と反論した[6]。その後もスティルウェルとシェンノートとの対立は続き、シェンノートが唱える「防御追撃戦略」に対してもほかの戦歴を引用し、否決に追い込もうともさえした。
カーチスP-40フライングタイガースに所属するP-40Cトマホーク

AVGメンバーが当初使用した機体はカーチス社製「P-40」のC型であった。P-40Cはそれ以前からイギリス軍に供与され「トマホークMk.IIB」の名称で実戦で使われていたが、低速で機動力が乏しく上昇力が悪く、さらに高空での性能が良くないなどの問題点を指摘されていた。このP-40Cをアメリカ軍がAVG向けに大量発注した際には、合衆国委員会が不正調査を行ったほどである[7]。しかし旧式と認識されていたP-40であるが、経験豊富なパイロットにとっては扱いやすく、さらに頑丈で急降下性能に優れた機体でもあった。防弾板と自動防漏燃料タンクは被弾によるダメージを軽減し、多くのパイロットを生還させた。AVGが手にしたP-40Cは、もともとイギリスに供与予定だった機体で、上面2色のイギリス空軍式の迷彩が施されていた。これは当時イギリスが購入を拒否したため、宙に浮いた機体を中国が購入したためである[8]。これらの機体には、部隊到着後に機首の下の部分に北アフリカのイギリス空軍第112中隊に倣った「シャークティース(サメの歯)」をイメージしたペイントが施されており、後部胴体にはウォルト・ディズニー・スタジオのロイ・ウィリアムズによりデザインされた虎に翼が生えた記章が描かれた。さらにコクピット横、あるいは前方には各中隊章が記入された。

シェンノートはP-40では運動性に優れた日本軍の戦闘機を相手に格闘戦では勝てないことを知っていた。そこで敵機より上空から降下し、近距離から射撃を加えた後に一気に離脱、その加速を利用して上昇し、また同じことを繰り返す一撃離脱戦法をAVG隊員に徹底させた。


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