フライングディスク
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「フリスビー」はこの項目へ転送されています。MOON CHILDのシングルについては「フリスビー (曲)」をご覧ください。
フライングディスク(フリスビー)

フライングディスク (flying disc) は、回転させ投げて遊ぶ円盤(ディスク)である。また、それを用いた競技の名前でもある。競技内容から、球技の下のカテゴリーにしばしば入れられる。円盤は通常プラスチック製で、直径約20センチメートルから25センチメートル程度のものが多い。手で勢いよく回し投げると揚力が生じるよう設計されており、そのまま手で受け止められる。フリスビー (frisbee) とも呼ばれるが、この名称はワムオー社 (Wham-O) の登録商標となっているため、公式戦などでは「フライングディスク」の呼称が一般的になっている。
歴史フリスビーの原型であるPluto Platterを宣伝するモリソンフリスビー・パイの台皿ディスクゴルフ用のディスクとゴールへドリックの遺灰を混ぜて作られたフリスビー

フライングディスクの発明者であるウォルター・フレデリック・モリソン(英語版)によると、1937年のサンクスギビングにガールフレンド(後の妻)とポップコーンの缶のフタを投げて遊んだのが最初だったという。その後ロサンゼルス近くのビーチでケーキの型を投げているときに、それを25セントで売ってほしいと言われたふたりは、これが商売になると気づいた[1]。モリソンは2007年にヴァージニアン・パイロット紙において「話はそこから回りはじめた。5セントで買ったケーキ型をビーチの人々が25セントで買うのなら、それは商売になる。」と語っている[2]

モリソン夫妻は商売を続けたが、第二次世界大戦中ウォルターはP-47のパイロットになり、その後捕虜になった[2]。戦後モリソンは空気力学的に改良されたディスクを設計し、当時有名だった競走馬ワーラウェイをもじって「Whirlo-Way」と命名した[1]。モリソンと彼のビジネスパートナーであるウォレン・フランシオーニはいくつかの設計上の変更とプロトタイプ作成の後、1948年に最初のプラスチック製ディスクを製造し、ケネス・アーノルド事件にちなんで「Flyin-Saucer」(空飛ぶ円盤)と改名した[2]

ヴァージニアン・パイロット紙においてモリソンは「我々はフェアで実演した。」と語る。ディスクを浮かせるためにワイアーで制御していると誰かが言ったと耳にしたふたりは[2]、「Flyin-Saucerは無料、ただし見えないワイアーは1ドル」という売り文句を考案した[3]。「そこでこういうものが売れると知った。」人々は夢中になった[2]

1950年はじめ、モリソンとフランシオーニはパートナー関係を解消し[2]、1954年にモリソンは「Flyin Saucer」(1953年以降ハイフンはなくなった)を売買するためのアメリカン・トレンド社を設立した。当時「Flyin Saucer」は最初に成形加工を行ったサザンカリフォルニア・プラスチックス社によって作られ、柔らかいポリプロピレン製だったが[1]、モリソンはもっと安く生産できることに気づき、1955年に新しい「Pluto Platter」というモデルを開発した。これが現在のすべてのフライングディスクの原型にあたる。彼は1957年1月23日に新しいモデルの権利をワムオー社に売却した[1][注釈 1]。1958年、モリソンは米国意匠特許D183,626を取得した。

かつてモリソンが1937年以来やっていたのと同様、イェール大学では学生たちが空になったパイの台皿を投げて遊ぶことが流行していた[2]。パイ皿には大学にパイを供給していたコネチカットのフリスビー・パイ・カンパニー (Frisbie Pie Company) の社名が書かれていたため[6]、この遊びはそれにちなんで「フリスビー」と呼ばれていた。そのことを知ったワムオー社の共同設立者であるリチャード・ネア (Richard Knerr) とアーサー・「スパッド」・メリンは1957年6月、このディスクに「フリスビー」(Frisbee)の商品名を与えた[7](なお、フリスビー・パイのパイ皿は1990年の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』に小道具として使われている)。

1957年11月、世界で初めて上演されたロック・ミュージカルであったらしい『Anything & Everything』の脚本は情報技術のパイオニアとして知られるテッド・ネルソンスワースモア大学在学中に(リチャード・カプランとの合作で)書いたものだが、その中の曲「Friz Me the Frisby」はフリスビー(Frisbyと綴られている)について歌われている。おそらくこれが公式の文献にフリスビーが現れた最古の例である。この曲は舞台上の脇役と観客の間でフリスビーをやり取りしながら歌われる。この場面はフリスビーのゲームを観客に紹介するために書かれている[8]

しかしフリスビーの成功の背後にあったのは南カリフォルニア出身のエド・ヘドリック (Ed Headrick) だった。彼は1964年にワムオー社の総支配人兼マーケティング担当副社長になり、Pluto Platterの型を再設計した。ディスクに記された惑星の名前を除くことが主だったが、偶然にもその工程で周縁部の厚みと重さが増し、ディスクの制御が容易になってより正確に飛ばせるようになった[9]


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