フライシャー・スタジオ
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フライシャー・スタジオ
Fleischer Studios Inc.
種類株式会社
本社所在地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨークブロードウェイ1600番地
設立1921年
業種情報通信業
事業内容映画アニメーションの企画・製作
代表者マックス・フライシャー
デイブ・フライシャー
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フライシャー・スタジオ (Fleischer Studios, Inc.) は、ニューヨーク州ニューヨークブロードウェイ1600番地で設立されたアニメーション制作会社に端を発するアメリカ企業

1921年ユダヤ系アメリカ人のマックス・フライシャーとデイブ・フライシャーのフライシャー兄弟によって設立された後、1942年5月にパラマウント映画に買収されてフェイマス・スタジオと改称されるまで、フライシャー兄弟によって経営されていた。1921年の設立当初の名称はアウト・オブ・ジ・インクウェル・フィルムズだったが、1929年に現在の名称に変更された。

1930年代から1940年代初めにかけてウォルト・ディズニー・プロダクション(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)に唯一対抗できた会社であり、『道化師ココ(英語版)』『ベティ・ブープ』『ポパイ』『スーパーマン』や長編映画『ガリバー旅行記』『バッタ君町に行く』などのカートゥーン映画を制作した。

フライシャー兄弟は長年の功績が認められ、1972年にアニー賞ウィンザー・マッケイ賞を贈られた。
サイレント時代『インク壺の外へ』シリーズの道化師ココ

マックス・フライシャーによる、人間の演技をアニメーションで再現するロトスコープの発明により、フライシャー・スタジオの歴史は始まった。この装置を使って、フライシャー兄弟は1919年にブレイ・スタジオと契約し、『インク壺の外へ(原題:Out of the Inkwell)』と題されたシリーズ作品を制作した。この作品には、フライシャー兄弟による最初のキャラクターである道化師ココが登場する。このシリーズは大きな成功を収め、1921年にフライシャー兄弟はブレイ・スタジオから独立し、自身のスタジオであるアウト・オブ・ザ・インクウェル・フィルムズ(Out of the Inkwell Films)を設立した。

1920年代を通じて、フライシャー・スタジオは知的なユーモアと多くの革新性を備えた、一流アニメーション制作会社の一つであった。この当時のフライシャーの作品には、有名なバウンシング・ボール方式を特徴とするミュージック・ビデオや、カラオケの原型であるシング・アロング形式の短編映画『ソング・カー・テューン(原題:Song Car-tunes)』から、相対性理論のような主題を扱った教育アニメーションが含まれていた(訳注:シング・アロングとは、スクリーン中の映像に合わせて観客が一緒に歌える形式の映画。バウンシング・ボールは、表示される歌詞の上をはねるボールにより観客に次の歌詞を教える仕組み)。

長編映画として世界初のトーキーである『ジャズ・シンガー(1927年)』公開の何年も以前に、フライシャーは音声を備えた複数のトーキー映画をこの『ソング・カー・テューン』シリーズで制作していた。きっかけとなったのは、1923年に世界初となる商業用のトーキー映画(短編)がニューヨークで公開されたことである。前述した映画はリー・ド・フォレストが開発したフォノフィルム(英語版)サウンド・オン・プロセスというトーキー方式を採用していた。この映画は、当時トーキーには無関心だったハリウッドなど西海岸方面からは全くと言って良いほど受け入れられなかったが、ニューヨークを始めとする東海岸の大都市では僅かながら話題を呼んだ。これを見たマックスとデイヴのフライシャー兄弟は、これなら観客を振り向かせられると、すぐさま1ダース以上の初期のカートゥーン映画で画像と音声を同調させるシング・アロング形式の『ソング・カーテューン』シリーズへの制作に取りかかる。

フライシャーは設立当初、ワーナー・ブラザースや、ウィンカー・ピクチャーズ(英語版)と一時的に契約をしていた。しかし、このシリーズの制作にあたり、フォレストと契約を交わし、フォノフィルム方式の所有権を獲得した。1923年に、フライシャーは、フォレストとエドウィン・マイルズ・ハディマン、ヒューゴ・リーゼンフェルト(英語版)の4人と共に配給会社『レッドシール・ピクチャーズ(Red Seal Pictures)』を設立した。この会社はアメリカ東海岸に36館の劇場チェーンを所有する比較的小規模な会社だった。

音楽にはマックスの弟で、作曲家でもあったルー・フライシャー(英語版)が受け持った。ルーは、1942年にフライシャー・スタジオが倒産するまでフライシャー作品の音楽監督を担当していた。

『ソング・カーテューン』シリーズは、1924年に陽の目を浴びることになった。主な作品に『カム・テイク・ア・トリップ・イン・マイ・エアシップ(原題:Come Take a Trip in My Airship)』『いとしきネリー・グレイ(原題:Darling Nelly Gray)』『『イン・ザ・グッド・オールド・サマー・タイム(原題:In the Good Old Summer Time)』などがある。特に代表されるのは1924年公開の『おお、メイベル(原題:Oh Mabel)』と1926年公開の『なつかしいケンタッキーの我が家(原題:My Old Kentucky Home)』である。両作は映像と音楽、そしてセリフを世界で初めてシンクロさせたアニメーション作品であるとして、アニメーションの評論家から高く評価されている。しかし、当時電気式スピーカーを揃えた劇場は少数であり、さらにレッドシールが所有する劇場も規模が小さく、これらのトーキーアニメーションはほとんど注目されなかった。

1927年5月、フォノフィルムの関連会社及び、配給会社レッドシールが倒産したため、『インク壺の外へ』シリーズと『ソング・カーテューン』シリーズの制作中止を余儀なくされた。トーキー全盛期が訪れるわずか5ヶ月前のことであった。同じ年フライシャーは、アートクラフツ・ピクチャーズの経営者であったアルフレッド・ワイス(Alfred Weiss)との仲立ちの下で、新たにパラマウント映画と配給を結び、『インク壺の外へ』の続編である『インク壺の小僧(原題:Inkwell Imps)』を1929年まで製作していた。
トーキーおよびカラー作品

1927年公開のジャズ・シンガーの大ヒットにより、これまでトーキーにあまり関心がなかった西海岸のハリウッドなどにもトーキー映画の波が押し寄せた。アニメーション界も例外ではなく、1928年10月にはヴァン・ビューレン(英語版)とポール・テリー(英語版)率いるフェイブルス・スタジオ(Fables Studios)が、同じ年の11月にはウォルト・ディズニー・プロダクション(Walt Disney Productions)が、それぞれトーキーアニメーション映画を発表した。それに便乗する形で、フライシャーは、1924年から3年間続いていた『ソング・カー・テューン』シリーズの続編を製作しようと考えた。『スクリーン・ソング(原題:Screen Songs)』シリーズである。その手始めとして会社の名称をフライシャー・スタジオ(Fleischer Studios Inc.)に変更し、サウンド方式を『ソング・カー・テューン』時代に採用していた、フォノフィルムからウェスタン・エレクトリックが開発したサウンド・オン・フィルム・プロセスに変更し音質の改善を図り、その試験としてフライシャーは短編映画『Finding His Voice』をウェスタン・エレクトリック協力の下制作した。1929年にフライシャーは再びパラマウント映画と契約を結び、『スクリーン・ソング』シリーズをスタートさせた。このシリーズにより、フライシャーは状況の変化を巧みに乗り切った数少ないアニメーション制作会社の一つとなった。まず最初に、『ザ・サイドウォークス・オブ・ニューヨーク(原題:The Sidewalks of New York)』(1925年に『ソング・カー・テューン』の一つとして公開された物のリメイク)が1929年2月5日に公開された。


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