フョードル・ドストエフスキー
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フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
Фёдор Mихaйлович Достоевский
1879年
誕生フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
Фёдор Mихaйлович Достоeвский
(1821-11-11) 1821年11月11日
ロシア帝国 モスクワ
死没1881年2月9日(1881-02-09)(59歳)
ロシア帝国 サンクトペテルブルク
職業小説家思想家
言語ロシア語
国籍 ロシア帝国
ジャンル小説
主題宗教
文学活動写実主義
代表作『罪と罰』(1866年)
白痴』(1868年)
悪霊』(1871年)
未成年』(1875年)
カラマーゾフの兄弟』(1880年)
デビュー作『貧しき人びと』(1846年)
配偶者Maria Dmitriyevna Isaeva
(1857?1864、死別)
アンナ・スニートキナ
(1867?1881、死別)
影響を受けたもの

ヴィクトル・ユーゴーアレクサンドル・プーシキンオノレ・ド・バルザックニコライ・ゴーゴリチャールズ・ディケンズエドガー・アラン・ポーロシア正教会など

影響を与えたもの

多くの世界文学者フリードリヒ・ニーチェヘルマン・ヘッセアーネスト・ヘミングウェイヴァージニア・ウルフルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインアレクサンドル・ソルジェニーツィンアントン・チェーホフジャン=ポール・サルトルアルベルト・アインシュタイン黒澤明手塚治虫小林秀雄湯川秀樹大江健三郎村上春樹三島由紀夫埴谷雄高など

署名
ウィキポータル 文学
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フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー[* 1]ロシア語: Фёдор Миха?йлович Достое?вский[* 2] [?f??d?r m???xajl?v??t? d?st??j?fsk??j] ( 音声ファイル)、1821年11月11日ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)は、ロシア帝国小説家思想家である。レフ・トルストイイワン・ツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪である。

28歳で空想的社会主義に関係して逮捕されるが、出獄後、社会主義に批判的になり、キリスト教人道主義へと思想を変化させ、代表作である『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などを発表し、「現代の預言書」とまでよばれる文学を創造した。ドストエフスキーの著作は、世界中で読まれ、170以上の言語に翻訳されている[1]ソルジェニーツィンチェーホフニーチェサルトルウィトゲンシュタインアインシュタイン、日本人では、黒澤明湯川秀樹小林秀雄大江健三郎村上春樹三島由紀夫埴谷雄高などの多くの人物に影響を与えた。
生涯
幼少期.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}マリア・フョードロヴナ・ネチャエワ(母)ミハイル・アンドレ―ヴィチ・ドストエフスキー(父)

フョードル・ドストエフスキーはモスクワのマリインスキー貧民救済病院の官舎で、ミハイル・アンドレ―ヴィチ・ドストエフスキーの次男として、生まれる。ミハイルは、マリインスキー貧民救済病院の医師であり、後に院長を務めた。母は、モスクワの裕福な商人の娘であった。敷地内にある実家で育つ。兄1人、妹2人、弟2人あり。1827年に、父が八等官に昇進して領地を持つことが許された。

四年後の1831年に、モスクワから150キロメートルほど南に離れたトゥーラ県にあるダロヴォーエを買う。その翌年には、隣村のチェリョーモシナを買い、「地主貴族」になった。しかし、土地を買ってすぐに大火事が起こり、二つの土地の屋敷は灰と化した。同年の夏には領地の屋敷は罹災から復興した。ドストエフスキーは、母が読み書きに使っていた『旧約聖書』や『新約聖書』、またシラーの『群盗』などに強い感銘を受けた。
青年期と両親の死

1833年、中学受験のため兄・ミハイルと一緒にドラシューソフの塾に通い、1834年に文学教育で有名な、チェルマーク寄宿学校に入学。1837年に母が死去した。そののち、兄ミハイルとともにサンクトペテルブルクに遊学。この年咽喉の病により発音が不自由となる。1838年16歳の時に帝都のサンクトペテルブルク陸軍中央工兵学校に入学[* 3]

1839年、父が農民に恨みを買い、ドストエフスキー家が所有する2つの領地であるダラヴォーエとチェルマシニャーの境界あたりで惨殺された[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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