フュッセン
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:バイエルン州
行政管区:シュヴァーベン行政管区
郡:オストアルゴイ郡
緯度経度:北緯47度34分
東経10度42分
標高:海抜 808 m
面積:43.52 km2
人口:

15,608人(2018年12月31日現在)[1]
人口密度:359 人/km2
郵便番号:87629
市外局番:08362
ナンバープレート:OAL
自治体コード:09 7 77 129
市庁舎の住所:Lechhalde 3
87629 Fussen
ウェブサイト: ⇒www.stadt-fuessen.de
市長:パウル・イアコプ (Paul Iacob)
郡内の位置

フュッセン(標準ドイツ語: Fussen, アレマン語: Fiesse)は、ドイツ連邦共和国南東部のバイエルン州シュヴァーベン行政管区オストアルゴイ郡に属す市である。バイエルン州の最南西部に位置し、ロマンティック街道とヴィア・クラウディア・アウグスタに面している。

住民の大部分はアレマン系で、アレマン語系のシュヴァーベン語を使用している。目次

1 地理

1.1 市の構成


2 歴史

2.1 市域の拡大


3 行政

3.1 市長

3.2 市議会

3.3 姉妹都市


4 文化と見所

4.1 博物館

4.1.1 ホーエス・シュロスの州立ギャラリー

4.1.2 市立絵画ギャラリー

4.1.3 フュッセン市博物館


4.2 建築

4.3 スポーツ

4.4 映画

4.5 聖マングの祭日


5 経済と社会資本

6 人物

6.1 出身者

6.2 ゆかりの人物


7 参考文献

8 引用

9 関連項目

10 外部リンク

地理

フュッセンはアルゴイ地方に位置する。市内をレヒ川が流れている。このドナウ川支流はチロル州との国境である市の南境界付近のレヒ渓谷を下り、市域を通って市の北東部に位置するフォルゲン湖に至る。フォルゲン湖は洪水の防止を目的とした人造の湖で、春の融雪水の集水池となっている。十月の中ごろを過ぎると、翌春の融雪に備えてこの湖は排水される。この他、市内にはホプフェン湖、ヴァイセン湖、アルタート湖、エッシャッヒャー池やヴィーデマン池がある。アルタート湖でレヒ川に合流するファウレンバッハ川沿いにはオーバーゼー(上の湖)とミッテルゼー(中の湖)がある。海抜808mに位置するフュッセンは、バイエルン州で最も高い都市である。 フュッセンの町並み
市の構成

本市は、公式には38の地区 (Ort) からなる[2]

バート・ファウレンバッハ

ベーベル

ベンケン

エンツェンスベルク

エルケンボリンゲン

エシャッハ


フィッシャービヒル

フュッセン

ホプフェン

モース

オーバーキルヒ

ロスモース


シュヴァルツェンバッハ

ゼー

シュタイクミューレ

フォルダーエック

ヴァイセンゼー

ヴィートマー


歴史

ローマ時代のフュッセンは、「Via Claudia Augusta」というローマ街道の経路上にある入植地であった。このローマ街道を南へ進むとイタリア北部に通じ、北へ進むとローマ帝国ラエティア属州の中心都市へと通じていた。その中心都市はアウグスタ・ヴィンテリコールムと言い、これは現在のアウクスブルクに当たる。古代末期には、アルプスを越える重要な交易路を警備するため、ローマ軍団の一つである第3軍団イタリカの部隊がフュッセンに駐屯した。フュッセンを発掘した結果、5世紀のローマ人の城郭基礎が出土した。おそらく260年にはすでにここにローマの軍事施設があったと推測されている。フュッセンの、当時の「Foetibus」または「Foetes」という名前は、ラテン語で「渓谷」を意味する「Fauces」またはゲルマン語で「麓、足」を意味する fot に由来する。その後集落名は Fozen(1147年)、Fozin(1188年)、Fuozzen(1206年)、Fuzzen(1366年)と変遷した後、現在の Fussen(1424年以降)となった。 現在の聖マング修道院教会

フュッセンがその守護聖人として崇める聖マング(フュッセンのマグヌス)は、748年にこの集落に庵を設けた。その後修道士が流入し、8世紀にはベネディクト会の聖マング修道院が創設された。聖マングの最初の埋葬地は、彼が建てた小さな教会であった。その後、彼の遺骨は850年に建てられた教会の地下室に移されたが、1100年頃にその遺骨は紛失した。今日では、聖マング修道院教会の地下室の埋葬地を見る事が出来る。聖マングの唯一の遺骨は聖遺物とされ、大祭壇の上のガラスの十字架の中に納められている。同じ十字架の中には彼の杖、胸の十字架、聖杯も納められている。

同じ8世紀頃に、フランク王国の王領が設けられた。代官権は初めヴェルフェン家に属したが、1191年にヴェルフェン家の世襲財産としてシュタウフェン家が購入した。1268年コッラディーノナポリで処刑された後、シュヴァーベン公領は帝国に返還された。

その間にレヒ川沿いの入植地は発展を遂げた。13世紀には当時のアルゴイ地方では最大の規模の都市となっていた。都市権の授与がいつであったかは定かではないが、フュッセンを「都市」と表記している1295年の史料が遺されている。

1313年皇帝ハインリヒ7世は、400マルク銀貨の借金のために、この街と周辺地域をアウクスブルク司教に質入れした。この借金は返済されなかった。皇帝の後継者達は1314年フリードリヒ美王)、1322年ルートヴィヒ・フォン・バイエルン)によって、その所有を認められた。カール4世によってアウクスブルク司教に裁判権が移譲されたことで、フュッセン帝国代官管理区は最終的に司教領となった。 1656年のフュッセン図

1486年から1505年にかけてアウクスブルク司教領主は中世都市の上にホーエ・シュロス(高い城館)を建造した。当時の後期ゴシック様式の城館は、その後は聖界領主の夏の離宮として用いられた。アルゴイ地方では大きな城で、ゴシック建築の城郭建築として大変良く保存されている。フュッセンのランドマークとなっているこの城館は、バイエルン州の絵画コレクションの展示支所となっており、ゴシック様式後期およびルネサンス期の美術品を中心に展示している。カトリックの都市であったフュッセンは、シュマルカルデン戦争の際にはプロテスタントの傭兵隊長ゼバスティアン・シェルトリン率いる高地ドイツ都市軍によって、1546年7月10日に占領された。現在の修道院教会は1701年から1726年に建設された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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