フニャディ・ヤーノシュ
Hunyadi Janos
トランシルヴァニア公
在位1441年 - 1456年
出生1387年/1407年/1409年
死去1456年8月11日
ハンガリー王国、ゼムン[1]
埋葬ハンガリー王国、ジュラフェヘールヴァール、聖ミハイ聖堂(英語版)
配偶者シラージ・エルジェーベト(英語版)
子女ラースロー
マーチャーシュ1世
家名フニャディ家
父親ヴォイク(Voyk[2]、Voicu、Vajk[3])
母親モルジナイ・エルジェーベト(Elizabeth Morsina[4]もしくはElizabeth Morzsinay[5])
役職ハンガリー王国摂政(1446年 - 1452年)
宗教キリスト教カトリック教会
サイン
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フニャディ・ヤーノシュ(ハンガリー語: Hunyadi Janos、イオアン・デ・フネドアラ(ルーマニア語: Iancu/Ioan de Hunedoara)、ヨハネス・コルヴィヌス(デ・フニャド)(ラテン語: Ioannes Corvinus/de Hunyad、1387年[6][7]/1407年[8][9][10]/1409年[9] - 1456年8月11日)は、現在のルーマニア出身のハンガリーの貴族。
同時代の史料には、ルーマニア南部のワラキアの貴族の家系の出身と記される。オスマン帝国の侵入に晒されるハンガリー南部の国境地帯に身を置き、戦闘を経て軍事技術を習得した。1441年にトランシルヴァニアの公(ヴォイヴォダ)といくつかの地区の知事に任ぜられ、国境の防衛を一手に引き受けた。
フニャディは気分次第で従軍を決める貴族出身の騎士に頼らず、錬度が高い傭兵と士気の高い志願兵を戦力の中心に据えた[11]。ボヘミアのフス派の傭兵が戦力の中心であり、親族、信奉者、家臣を軍に加え、一般の民衆も軍隊に編入した[12]。そして、戦闘に大型の四輪荷車を連結するフス派の戦法を導入した[13]。一連の軍事技術の革新によって、フニャディは1440年代初頭にハンガリー南部に侵入したオスマン軍に勝利することができた。1444年のヴァルナの戦い、1448年のコソヴォの戦いでの敗北にもかかわらず、1443年から1444年にかけてのバルカン山脈を越えての「大遠征」と1456年のベオグラードでの包囲戦におけるオスマン帝国皇帝メフメト2世に対する勝利によって、偉大なる指揮官としての名声を確立した。キリスト教世界のために戦う兵士を激励するため、ローマ教皇は週に一度教会の鐘を鳴らすよう命じていたが、1456年のベオグラード防衛の後、カトリックの教会と一部のプロテスタントの教会はフニャディの勝利を記念して毎日の正午に鐘を鳴らすようになった。
フニャディは、政治家としても優れた素質を持っていた[14]。