フスタート(アラビア語:???????)は、アラブ人の統治下となったエジプトにおいて、初めて首都となった都市である。641年に、アムル・イブン・アル=アースによって、建設された。アムルの手によって、アフリカ最古のモスクであるアムル・イブン・アル=アース・モスクが同時期に建設された。
フスタートの繁栄は12世紀に頂点を迎えた。そのときの人口は約20万人に達していた[1]。1168年のシャーワルによる放火で灰燼に帰するまで、エジプトの商業の中心地であった。廃墟と化したフスタートにおいて残っていた区画は、969年以来、エジプトの行政の中心地であったカイロに吸収されることとなった。969年とは、アルジェリアで勃興し、エジプトを支配することで、カリフ位を宣言したファーティマ朝がカイロを建設した年である。それ以後のフスタートは、数百年間、廃墟として放置され、一部ではゴミ捨て場と化している。
今日のフスタートは、カイロ旧市街の一区画をなしているものの、首都としての機能していた時代から残っているものは少数であり、この地区は、考古学上の発見がなされる場所である。フスタートで発掘された考古資料はカイロにあるイスラーム芸術博物館において展示されている。 フスタートが首都の1つとして機能していたのは、おおよそ500年間である。641年に建設されたフスタートは、アッバース朝がウマイヤ朝を打倒した750年に、ジャーリフの丘から北側が分割され、アル・アスカル
エジプトの首都
名前の由来アムル・イブン・アル=アース・モスク。現在のモスクは、1168年の破壊で喪失しており、再建されたものである。「アムル・イブン・アル=アース・モスク」も参照
フスタートの名前の由来は、アラビア語で大きなテント、あるいはパビリオンを意味するfus???である。伝説によれば、フスタートの場所を選んだのは一羽のハトだという。アムル・イブン・アル=アースがアレクサンドリア攻略の際に宿営していたテントに一羽のハトが営巣し、抱卵していた。アムルの宿営地は、ローマ帝国が建設したバビロン要塞の北側にあった[3][4]。アムルはハトの抱卵を神の啓示と宣言し、宿営地をそのまま残し、アレクサンドリア攻略のために、進軍を開始した。アレクサンドリア攻略後、アムルは、宿営地をエジプトの首都とし、都市の名前をフスタートにすることを自らの部下に伝えた。 数千年の間、エジプトの首都は、ナイル川流域を転々としていた。テーベ、メンフィスといった都市が一例として挙げられるが、エジプトはそれだけ、ナイル川に依存していることの証左でもある。 紀元前331年、アレクサンドロス3世がエジプトを征服すると、彼の名前にちなんだ都市がナイル川河口に建設された。それが現在のアレクサンドリアである。アレクサンドリアがエジプトの政治、経済、宗教、文化の中心であった時代は、それ以降、641年、イスラーム勢力(アラブ人)がアレクサンドリアを陥落させるまで続いた。ウマルの命令を受けていたアムル・イブン・アル=アースは、ナイル川東岸に新しい都市を建設した[2]。 フスタートの初期の人口のほとんどが、戦士とその家族で占められており、都市のレイアウトは要塞に似ていた。アムルの考えは、フスタートを北アフリカ及び東ローマ帝国の攻略の拠点とすることであった。フスタートが北アフリカ攻略の拠点であり続けたのは、670年にチュニジアの地にケルアンが建設するまで続いた[5]。 フスタートには、642年にアフリカ最古のモスクであるアムル・イブン・アル=アース・モスクが建設され、その周辺には役所が建設された[6] 。
繁栄の時代