フジオ・プロダクション
[Wikipedia|▼Menu]

株式会社フジオ・プロダクション
Fujio Productions
種類株式会社
略称フジオ・プロ
本社所在地 日本
164-0013
東京都中野区弥生町1-14-3
本店所在地161-0032
東京都新宿区中落合1-3-15
設立1965年昭和40年)4月2日
法人番号5011101019056
事業内容赤塚不二夫の漫画の管理
代表者代表取締役社長 赤塚りえ子
関係する人物赤塚不二夫
外部リンク ⇒http://www.fujio-pro.co.jp/
テンプレートを表示

株式会社フジオ・プロダクションは、赤塚不二夫が設立した漫画制作・著作権管理会社である。代表取締役社長赤塚りえ子(不二夫の長女[1])。通称「フジオ・プロ」。かつてはアシスタントのみならず多数の漫画家や作家が所属していた。

現在は赤塚不二夫作品に関する著作権管理・運営を主たる業務とし、出版・展覧会等の著作物使用業務全般、広告・商品化等のキャラクタービジネスを行っている[2]
概要

1963年頃、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』で売れっ子になった赤塚は、長谷邦夫横山孝雄高井研一郎よこたとくお山内ジョージに赤塚の妻であった稲生登茂子を加え「七福人プロダクション」を設立。漫画制作の共同作業を始めたが、仕事場に借りた雑居ビルは狭くて徹夜になると寝る場所がなく、南京虫が大発生して環境が劣悪であり、1年ほどで解散した。その後に借りた別の仕事場では横山、高井に古谷三敏北見けんいちが加わり、これがフジオ・プロの母体になった[3]

1965年4月にフジオ・プロダクションを設立[4]。立ち上げメンバーには赤塚の他に前述の長谷、古谷、横山、高井等がいた。当初は東京の新宿十二社の市川ビルの3階にある34藤子不二雄主宰の藤子スタジオつのだじろう主宰のつのだプロとともに三分割して貸し切った。また、4階には1963年に石森章太郎鈴木伸一、藤子不二雄、つのだじろうが設立し、半年後に赤塚も参加したアニメ制作会社スタジオ・ゼロ」が入った[5][6]1969年株式会社化した[4]

本社は東京都中野区弥生町[7]登記上本店は新宿区中落合にある。1969年にスタッフの増加により市川ビルを撤退した後は代々木にあった村田ビルの八階に移し換えたが、すぐ翌年の1970年に中落合の木造家屋[1]へと本拠地を移し換え[8]、現:フジオ・プロビル(1978年完成)のすぐそばにあったひとみマンションの部屋七室を使用し、1978年からは同じく中落合に建築した自社ビルに移転した。ここは自宅兼の鉄骨造三階建てで、老朽化したため、2022年10月30日まで回顧展を開いた後、2023年に取り壊される予定である[1]

現在は、赤塚の長女の赤塚りえ子(英国ロンドン在住の現代美術アーティストであった)が、父が興したフジオ・プロダクションを引き継ぎ、赤塚の二番目の妻だった眞知子が死去した後を受けて社長を務めている。また、広告や新規の単行本などで書き下ろされる版権イラストは1980年代後半から1994年まで[9]チーフアシスタントを務めた吉勝太(本名:嶺松孝佳)が手掛けている。

フジオ・プロは晩年の赤塚のイメージと異なり、肖像権や著作権に極めて厳格な事で知られており、キャラクターを無断使用されたサザエボンが発売された際には訴訟になっている。
マンガの制作体制

赤塚はフジオ・プロ設立とともに、執筆のスピードアップを計るべく、正式に完全分業システムを採用。赤塚、長谷、古谷、担当編集者を交えた「アイデア会議」を経て、赤塚がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(人物の表情や動き、背景のなどのラフな下描き)を作成し、高井と古谷(のちにあだち勉、しいやみつのり、吉勝太など)が下絵を完成させて製作を進行という形を取った。この様に漫画製作にアシスタントらが大きく関与しているため、赤塚はプロダクションを設立して以来、雑誌掲載時のクレジット表記を長年「赤塚不二夫とフジオ・プロ」としていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef