フォー・シーズンズ
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この項目では、アメリカ合衆国の音楽グループについて説明しています。その他の用法については「フォー・シーズンズ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

フォー・シーズンズ
フォー・シーズンズ(1966年)
基本情報
出身地 アメリカ合衆国
ニュージャージー州 ニューアーク
ジャンルロックンロール
ポップ・ミュージック
ブルー・アイド・ソウル
活動期間1960年 -
レーベルGone
ヴィージェイ・レコード
フィリップス・レコード
モータウン
ワーナー・ブラザース・レコード
MCA
Curb

フォー・シーズンズ (The Four Seasons) は、アメリカ合衆国の、1960年代中期に世界規模で成功したブルー・アイド・ソウル(つまり白人が演奏した60年代の黒人音楽)ロックポップスグループ。アメリカでブリティッシュ・インベイジョンの前後最中を通して人気のあったグループはビーチボーイズとフォー・シーズンズのみと評されている[1]
概要

1960年、フランキー・ヴァリがリード・ヴォーカル、元ロイヤル・ティーンズ(英語版)のボブ・ゴーディオがキーボード奏者およびテナー・ヴォーカル、トミー・デヴィートがリード・ギターおよびバリトン・ヴォーカル、ニック・マッシがベース・ギターおよびバス・ヴォーカルを担当していたフォー・ラヴァーズがフォー・シーズンズと名を変えた。1960年より「フランキー・ヴァリ・アンド・フォー・シーズンズ」としても知られている。1960年、オーディションに落ちたゴーディオとヴァリにより結成された法的な名称はフォー・シーズンズ・パートナーシップである。歌手、プロデューサー、ミュージシャンの入れ替わりは激しかったが、ゴーディオとヴァリは常に残っていた(2人は互いに実質的に全曲目を含む資産の50%を所有)[2][3]。ゴーディオはライヴ活動から引退したため、現在ツアー公演を行なっているオリジナル・メンバーはヴァリのみである[4]

1960年から1966年までのメンバーのフォー・シーズンズは1990年にロックの殿堂[5]、1999年にヴォーカル・グループの殿堂に殿堂入りした[1]。世界中で1億枚以上の売り上げを誇り、現在でも最も売り上げの高い音楽グループの1つとされている[4]

フランキー・ヴァリが「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第80位にランクインしている[6]
来歴
フォー・シーズンズ以前

1953年、フランキー・ヴァリの商業的初リリースは『My Mother's Eyes 』であった。翌1954年から1956年、ヴァリはトミー・デヴィート(およびリズム・ギターにハンク・メジャースキ、アコーディオンにフランク・カトゥーン、ドラムにビリー・トンプソン)と共にヴァリエーションズを結成し、何度かの改名を経てフォー・ラヴァーズとなった[7]。1956年、初めてのレコード『You're the Apple of My Eye 』を発表し、『ビルボード』誌Hot 100のシングル・チャートで最高第62位となった[8]。翌年までにRCAレコードからさらに5枚のシングルを発表したが、売り上げも伸びず、ラジオでもジュークボックスでも流れなかった。1957年、エピック・レコードから7枚目のレコードを発表したが状況は変わらなかった[9]

1956年から1960年、フォー・ラヴァーズとしてクラブやラウンジで演奏を続け、フランキー・タイラー、フランキー・ヴァレイ、フランキー・ヴァレイ・アンド・ザ・トラベラーズ、フランキー・ヴェイル・アンド・ザ・ロマンズ、ザ・ヴィレッジ・ヴォイスィーズなど様々に名を変え、様々なレコード会社からレコードを発表した。そのステージ・ネームは18にも及んだ。1958年、プロデューサーのボブ・クルーのもとでスタジオ・ミュージシャンとして活動を始めた(クルーはヴァリのソロ・シングル『I Go Ape 』を書いた)。同年終盤、フォー・ラヴァーズがボルチモアで演奏した際、同じステージにロイヤル・ティーンズ(英語版)も出演していた。ロイヤル・ティーンズは『ショート・ショーツ(英語版) (Short Shorts)[注 1] 』の全米ヒットを持っており、これを他者と共同で作曲したのがロイヤル・ティーンズのギタリストで当時15歳だったボブ・ゴーディオであった。

翌年、フォー・ラヴァーズのニック・デヴィートの代わりにゴーディオが加入してキーボードとギターを兼ね、メジャースキの代わりにチャーリー・カレロがベース奏者として加入した。1960年、カレロが脱退してニック・マッシが加入した(カレロはその後アレンジャーとして戻ってきた)。メンバー・チェンジにより強化をはかったが、ニュージャージー州ユニオン郡ボウリング場のラウンジ演奏のオーディションに落ちた。ゴーディオによると、「この状況を脱する方法を考え、ボウリング場の名前から『フォー・シーズンズ』と名付けることにした」。フォー・ラヴァーズとして数年苦境に立たされていたが、これをターニング・ポイントとしてキーボード奏者で作曲家のボブ・ゴーディオとリード・ヴォーカルのフランキー・ヴァリはフォー・シーズンズ・パートナーシップを結成した。
フォー・シーズンズとして

1961年、フォー・シーズンズとしてゴーン・レコードから初めてのレコード『Bermuda 』/『Spanish Lace 』を発表したが、チャート・インしなかった。プロデューサーのボブ・クルーの所有するレーベルであるトピックスでバックグラウンド・ヴォーカルとして様々なグループと共に活動するようになった。クルーとゴーディオは話し合いを重ね、最終的にゴーディオは自分達のために『シェリー (Sherry )』という名の曲を書いた。レコーディングをし、フォー・シーズンズとクルーはレコード会社に売り込んだ。フランキー・ヴァリはヴィージェイ・レコードの西海岸セールス・マネージャーのランディ・ウッドと会い、ウッドは責任者に『シェリー』のリリースを提案した。これによりクルーは自身のプロダクション会社とヴィージェイは『シェリー』をリリースする契約を結ぶことができた。当時フォー・シーズンズはアーティストとしてクルーのプロダクションと契約していたのである。フォー・シーズンズはヴィージェイ初の白人アーティストとなった[10]

1962年、『シェリー』を収録したアルバム『Sherry & 11 Others 』を発表した。『シェリー』はフォー・シーズンズにとって初めてチャート入りしただけでなく、第1位を獲得した曲となった。プロデューサー/ソングライターのボブ・クルーの指導のもと、『シェリー』の後も『恋はヤセがまん(Big Girls Don't Cry )』(2曲目の第1位)、『恋のハリキリ・ボーイ (Walk Like a Man )』(3曲目の第1位)、『Candy Girl 』、『Ain't That a Shame 』などいくつかのミリオン・セールスを記録した。ドゥーワップの音楽性を大胆に取り込んだ曲は、ポップチャートばかりでなくR&Bチャートでも大きな成功を収め、ライチャス・ブラザーズとともに、ブルー・アイド・ソウルの草分けともいえる存在でもあった。1962年12月、ユニークな演奏でチャート入りした『サンタが街にやってくる』を収録したクリスマス・アルバム『The 4 Seasons Greetings 』を発表した。

1962年から1964年初頭、レコード売り上げにおいてアメリカではザ・ビーチ・ボーイズだけがライバルであった。ヴィージェイではホリデイ・シングルを除き、『ビルボード』誌のシングル・チャートで3曲連続第1位となった初めてのロック・バンドとなった。
ヴィージェイからフィリップスへ移籍


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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