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フォンニィ・フォンニャットの虐殺
犠牲者を収容するアメリカ海兵隊員(J・ボーン伍長撮影)
各種表記
ハングル:????? ?? ?? ??
漢字:????? 良民 虐殺 事件
発音:ポンニ・ポンノッ ヤンミン ハクサル サコン
2000年式:
英語表記:Pongni / Pongneot yangmin haksal sageon
Phong Nhi and Phong Nhat massacre
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フォンニィ・フォンニャットの虐殺
各種表記
チュ・クオック・グー:Th?m sat Phong Nh?t va Phong Nh?
漢字・チュノム:慘殺豐一且豐二
北部発音:タムサット・フォンニャット・ヴァー・フォンニィ
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フォンニィ・フォンニャットの虐殺(フォンニィ・フォンニャットのぎゃくさつ、????? ?? ?? ??[1]、フォンニィ・フォンニャット良民虐殺事件[1]、Phong Nhi and Phong Nhat massacre[2])は、ベトナム戦争中に韓国軍が起こした一連の虐殺事件の一つ[3]。1968年2月12日に、南ベトナムクアンナム省ディエンバン市社フォンニィ・フォンニャット村で、大韓民国海兵隊第2海兵旅団
(青龍部隊)(en)によって、非武装の民間人69-79人[4]が虐殺された。2020年現在、韓国政府、および韓国軍は、虐殺及び性暴力を認めていない[5]。 1968年2月12日[6]、フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵旅団(青龍部隊)第1大隊は婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着した[7]。アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した[7][8]。また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われた[7]。事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。 当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していた[9]。続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺された[10]。 事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が韓国軍に調査報告を繰り返し求め続けたため[11]、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を着たベトコンによる陰謀であったとアメリカ軍に報告した[11]。フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国では韓国政府が行った聞慶虐殺事件、保導連盟事件では共産主義者に罪を着せることで虐殺事件を闇に葬りさることに成功していた[12][13]。韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モレヘッド・コック
概要
アメリカ軍内部では、韓国軍を完全な後方部隊とするか、南ベトナム解放民族戦線が完全に支配していて、誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきである、とした検討が行われた[15]。韓国兵は残忍なやり方で女性を強姦してから殺害するケースが多く、アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった[16]。また妊婦や子供は井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだ。生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った[16]。1969年2月には事件の遺族達によって南ベトナム議会に賠償を求める請願書が提出されている[7]。2000年には蔡命新将軍は数々の事件について、我々は誰にも償いをする必要はないと述べている[14]。