基礎自治体章
位置
ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるフォチャの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度30分 東経18度47分 / 北緯43.500度 東経18.783度 / 43.500; 18.783
フォチャ(セルビア語:Фоча、ボスニア語:Fo?a、クロアチア語:Fo?a)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうちスルプスカ共和国に属し、ドリナ川の東岸、フォチャ地方にある。フォチャ地方の中心的な都市である。 町は中世にはフヴォチャ(Hvo?a / Хвоча)と呼ばれた。町はやがて、ラグーサ共和国(ドゥブロヴニク)と、オスマン帝国のイスタンブールを結ぶ交易の拠点として発展した。 第二次世界大戦の間、地元のセルビア人は、クロアチア人のナチスト組織ウスタシャと、ウスタシャに協力するムスリム・ボスニア人の軍によってジェノサイドの対象とされ、組織的な蛮行が行われた。それに対する報復として、セルビア人の民族主義組織チェトニックは組織的にムスリム女性を強姦し、フォチャにいた10,000人の男性のノドを切った[1]。第二次世界大戦の全期間にわたって、ザハリヤ・オストイッチ(Zaharija Ostoji?)率いるチェトニックの部隊が、8,000人を殺害した[2]。またこの地は、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるパルチザンとナチス・ドイツの伝説的な戦いが行われた場所である。この戦いで死亡したパルチザン兵士のためのモニュメントが、フォチャ市内の村ティエンティシュテ(Tjenti?te)に建てられた。 1992年、フォチャはセルビア人の武装勢力の支配下に置かれた。この地域に居住していたすべてのボシュニャク人が民族浄化の対象となった。フォチャ出身の2,704人は紛争中に死亡したか行方不明となっている。この死者・行方不明者の多数を占めるのはボシュニャク人である。フォチャはまた、強姦収容所の設置場所となった。パルチザン会館はセルビア人勢力によって収容所として利用され、数百人のボシュニャク人女性が組織的に強姦された[3]。
歴史
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とその後詳細は「フォチャの虐殺」を参照