フォチャ_(ボスニア・ヘルツェゴビナ)
[Wikipedia|▼Menu]

フォチャ
Фоча
Fo?a
Fo?a

フォチャ


基礎自治体

位置

ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるフォチャの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度30分 東経18度47分 / 北緯43.500度 東経18.783度 / 43.500; 18.783
行政
ボスニア・ヘルツェゴビナ
 構成体 スルプスカ共和国
 地方フォチャ地方
 基礎自治体フォチャ
市長Zdravko Krsmanovi?
(スルプスカ共和国社会党)
地理
面積 
  基礎自治体域1,180 km2
その他
等時帯中央ヨーロッパ標準時 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
市外局番58
公式ウェブサイト : ⇒http://www.opstinafoca.rs.ba/

フォチャ(セルビア語:Фоча、ボスニア語:Fo?a、クロアチア語:Fo?a)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうちスルプスカ共和国に属し、ドリナ川の東岸、フォチャ地方にある。フォチャ地方の中心的な都市である。
歴史

町は中世にはフヴォチャ(Hvo?a / Хвоча)と呼ばれた。町はやがて、ラグーサ共和国ドゥブロヴニク)と、オスマン帝国イスタンブールを結ぶ交易の拠点として発展した。

第二次世界大戦の間、地元のセルビア人は、クロアチア人のナチスト組織ウスタシャと、ウスタシャに協力するムスリム・ボスニア人の軍によってジェノサイドの対象とされ、組織的な蛮行が行われた。それに対する報復として、セルビア人の民族主義組織チェトニックは組織的にムスリム女性を強姦し、フォチャにいた10,000人の男性のノドを切った[1]。第二次世界大戦の全期間にわたって、ザハリヤ・オストイッチ(Zaharija Ostoji?)率いるチェトニックの部隊が、8,000人を殺害した[2]。またこの地は、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるパルチザンナチス・ドイツの伝説的な戦いが行われた場所である。この戦いで死亡したパルチザン兵士のためのモニュメントが、フォチャ市内の村ティエンティシュテ(Tjenti?te)に建てられた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とその後詳細は「フォチャの虐殺」を参照

1992年、フォチャはセルビア人の武装勢力の支配下に置かれた。この地域に居住していたすべてのボシュニャク人が民族浄化の対象となった。フォチャ出身の2,704人は紛争中に死亡したか行方不明となっている。この死者・行方不明者の多数を占めるのはボシュニャク人である。フォチャはまた、強姦収容所の設置場所となった。パルチザン会館はセルビア人勢力によって収容所として利用され、数百人のボシュニャク人女性が組織的に強姦された[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:33 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef