フォチャの虐殺
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フォチャの虐殺(フォチャのぎゃくさつ、セルビア語ボスニア語クロアチア語:Zlo?ini u Fo?i)は、セルビア人の軍事組織、警察準軍事組織によって、ボスニア・ヘルツェゴビナフォチャ地域(ガツコやカリノヴィク(英語版)を含む)で、ボシュニャク人の市民に対して1992年4月7日から1994年1月にかけて行われた一連の大量殺害である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に関する戦争犯罪を裁く旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)の検察局が発行した数多くの起訴状の中で、この大量殺害は「人道に対する罪」であるとされた。1997年、ノヴィスラヴ・ジャイッチ(英語版)に対するICTYの裁判の判決の中で、1992年6月の大量殺害がジェノサイドであると認定された[1]。大量殺害に加えて、この地域では、非セルビア人市民に対する民族浄化、大量強姦、ボシュニャク人が所有する財産や文化的遺産の意図的な破壊などが行われた。

フォチャ地域からは、すべてのボシュニャク人が殺害されるか追放されるなどによって一掃された。紛争前の住民のうち、2704人が紛争の間に死亡したか行方不明となっている[2]。これに加えて、セルビア人勢力の当局は、後に「強姦収容所」と称される抑留施設を設け、数百人の女性が組織的に強姦された[3][4]

フォチャの虐殺に加担した多くのセルビア人の当局者、兵士、その他の加担者らが、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追され、有罪を認定されている。
民族浄化

セルビア人勢力によるボスニア東部での民族浄化に関して、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の判決では以下のように言及されている:ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか、ボスニア・ヘルツェゴビナの東部ではスルプスカ共和国を中心とするセルビア人勢力が、非セルビア人の市民を攻撃していた。町や村はひとたびセルビア人の手に落ちると、セルビア人勢力 - 軍や警察、準軍事組織、そして時にはセルビア人の村人までもが - おなじパターンに従って行動した。ボシュニャク人の家や住宅は組織的に破壊されるか放火され、ボシュニャク人の市民は追い込まれるか捕らえられ、時に殴打され、殺害された。男性と女性は分離され、男性らの多くは強制収容所に送られた。女性らは各地の抑留地にとどめ置かれ、極めて劣悪な環境の中での生活を強いられ、繰り返し強姦されるなどの虐待を受けた。セルビア人の兵士や警官はこれらの抑留地を訪れ、一人あるいは複数の女性を選んで連れ出し、強姦した[5]

この事件によって、ボシュニャク人市民が地域から一掃されるとともに、ボシュニャク人の文化など、ボシュニャク人が地域に存在した痕跡はほぼ完全に払拭された。市内のすべてのモスクが破壊された。1992年4月22日、セルビア人勢力はアラジャ・モスク(ボスニア語: Alad?a d?amija)を爆破した。アラジャ・モスクは、バルカン半島地域では有名な歴史あるモスクであった。また、このほかに、16世紀から17世紀にかけて建造された8つのモスクが破壊されている。1994年1月、セルビア人当局はフォチャを「スルビニェ」(Срби?е / Srbinje)と改称した。「スルビニェ」とは、「セルビア人の地」を意味する語であり、「セルビア人」を意味する「Srbi」と、スラヴ語で土地を表す接尾語「-nje」から成っている[5]
大量強姦

ボシュニャク人の女性らは複数の抑留施設に抑留され、極めて劣悪で非衛生的な環境の元におかれた。女性らは繰り返し強姦される等の虐待を受けた。セルビア人の軍人や警察官はこの抑留施設を訪れ、1人または複数の女性を選び出し、強姦した。これらの行為はすべて、当局の知るところであり、スルプスカ共和国の当局はこれらの行為が行われていることを認識し、各地の警察をはじめとして時にこれらの行為に直接関与した。フォチャの警察軍の局長ドラガン・ガゴヴィッチ(Dragan Gagovi?)は、これらの抑留施設を訪れ、女性を強姦した者の一人として人物特定されている。フォチャには複数の強姦収容所があり、その中のひとつは「カラマン(Karaman)の家」と呼ばれていた。女性らはここに抑留されている間、繰り返し強姦されていた。「カラマンの家」に抑留されていた女性らの中には、15歳に満たない少女もいた[5][6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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