フェードア・フォン・ボック
Fedor von Bock
1939年
渾名Holy Fire of Kustrin
Der sterber
生誕 (1880-12-03) 1880年12月3日
ドイツ帝国
プロイセン王国、ブランデンブルク州
モーリッツ・アルブレヒト・フランツ・フリードリヒ・フェードア・フォン・ボック(ドイツ語: Moritz Albrecht Franz Friedrich Fedor von Bock、1880年12月3日 - 1945年5月4日)は、ドイツの陸軍軍人。最終階級は陸軍元帥。 プロイセン王国のキュストリン(現在のポーランド領コストシン・ナド・オドロン)生まれ。父カール・モーリッツは陸軍少将で、普仏戦争には師団指揮官として従軍し、セダンの戦いでの勇敢さで表彰を受けた。曽祖父はフリードリヒ大王治世下のプロイセン陸軍で勤務し、祖父は1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いに参加している。母オルガ・ヘレネ・フランツィスカはファルケンハイン男爵家の令嬢で、のちに参謀総長となるエーリッヒ・フォン・ファルケンハインの姉妹だった。8歳でベルリンに移ってポツダムとリヒターフェルデ
生い立ち
大戦後も軍備制限されたヴァイマル共和国の陸軍に残る。第3師団参謀長を経て、1929年に少将、1931年に中将に昇進。同年2月、第II軍管区司令官に任命される。1933年に政権を握ったナチ党に対しては中立的な姿勢だった。1938年のオーストリア併合の際は第8軍司令官としてオーストリアに進駐。その年3月に遡及して上級大将に昇進した。同年11月に第1軍集団司令官に任命され、ポーランド侵攻を控えた翌8月26日に北方軍集団司令官に任命された。 1939年の第二次世界大戦開戦時のポーランド侵攻では北方軍集団司令官、1940年の西方電撃戦ではB軍集団司令官として指揮を執り、パリ入城式を挙行して凱旋門をくぐった。その戦功により同年7月陸軍元帥に昇進する。同年の60歳の誕生日に際し、アドルフ・ヒトラー総統から10万ライヒスマルクを下賜された。 1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦では中央軍集団司令官としてミンスク、スモレンスクを攻略し、12月には隷下部隊はモスクワ前面30kmに迫ったが、ソ連軍の激しい反撃と猛烈な寒波によって攻撃は頓挫、ヒトラーによって司令官を解任される。しかし、1942年1月に南方軍集団司令官ヴァルター・フォン・ライヒェナウ元帥が事故死すると、南方軍集団司令官に任命される。ところが、同年夏の攻勢における作戦指揮を巡ってまたもやヒトラーと対立、7月には再び司令官を解任される。
第二次世界大戦
しかし1945年5月3日にキール近郊で、乗車がイギリス軍機の銃撃を受け、翌日死亡した。同乗していたボックの妻・娘、車の運転手も死亡した。その5日後、ドイツは降伏し終戦となった。
前線後方で繰り広げられるユダヤ人大量虐殺に抗議し、軍上層部へ担当将校の処罰を要請したこともあるが、黙殺され成果はなかった。一方、甥にあたるヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将から反体制グループへの参画を打診されるが、これは拒否している[1]。
栄典
四等王冠勲章(英語版) - 1911年9月13日受章
1914年版鉄十字章
二級 - 1914年9月18日受章
一級 - 1916年12月30日受章
剣付ホーエンツォレルン家勲章騎士十字章 - 1916年10月25日受章
プール・ル・メリット勲章 - 1918年4月1日受章
勤続章 - 1920年受章
シレジア鷲章(英語版) - 1921年4月15日受章
二等
一等
国防軍勤続章 (一等?四等)
柏葉付 1939年9月12日受章
1938年3月13日記念メダル
1938年10月1日記念メダル
鉄十字章略章 - 1939年9月22日受章
二級
一級
騎士鉄十字章 - 北方軍集団司令官、上級大将として1939年9月30日受章[2][3]