フェヴズィ・チャクマク
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ムスタファ・フェヴズィ・チャクマク
Mustafa Fevzi Cakmak

生誕1876年1月12日
オスマン帝国イスタンブール
死没 (1950-04-12) 1950年4月12日(74歳没)
トルコイスタンブール
所属組織トルコ陸軍
軍歴1898 - 1922
1924 - 1944
最終階級陸軍元帥
指揮共和国軍参謀総長
戦闘バルカン戦争
伊土戦争
第一次世界大戦
トルコ革命
除隊後政治家
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ムスタファ・フェヴズィ・チャクマク(Mustafa Fevzi Cakmak, 1876年1月12日1950年4月12日)は、オスマン帝国およびトルコ軍人政治家。長年にわたり参謀総長を務めたほか、トルコ革命中はムスタファ・ケマルの片腕として暫定首相を務めた。最終階級は、「マレシャル」 (Mare?al、元帥)。
経歴
家族・学校ケマル・アタトゥルク(左にいる人物)とチャクマク(1937年)

オスマン帝国の帝都イスタンブールのジハーンギールに、砲兵工廠勤務のアリ・スッル・エフェンディ (最終階級は砲兵大佐)とヴァルナル・ベキル・エフェンディの娘ヘスナ・ハヌムの三男として生まれた。1879年に父アリ・スッル・ベイがルーメリ・カヴァゥにある黒海砲兵連隊に転属となり家族で転居したため、後に「カヴァクル」・フェヴズィと呼ばれることになった。1882年から1884年までルーメリ・カヴァゥのサードゥク・ホジャ学校で、1884年から1886年までサルイェルのテドリスィイェイ・ハイリイェ校で学んだ後、1886年にサロニカ (テッサロニキ)のセラーニク幼年兵学校に入学、1887年にイスタンブールのソーウクチェシメ幼年兵学校に転校し、1890年から1893年までクレリ少年兵学校で学んだ。1893年4月29日に士官学校 (1311年入学組)に入学し、1896年1月28日に7席で卒業してオスマン帝国陸軍で歩兵少尉に任官した。クラスには、アリ・サイド・エフェンディ (歩兵科首席)、ヴェフビ・エフェンディ (歩兵科8席)、アリ・エフェンディ (歩兵科11席)、アーリフ・エフェンディ (騎兵科69席)、レシャード・エフェンディ (歩兵科80席)らがいた。1896年1月28日に陸軍大学に入学して、1898年12月25日に同校を修了し参謀大尉として参謀本部第4課に配属された。
西ルメリア

1899年4月11日、メトロヴィチャ (ミトロヴィツァ)駐留の第18師団の参謀となり、1908年12月29日、タシュルジャ郡 (プリェヴリャ)の知事と司令官を兼務する形で第35旅団長に任命された。1910年1月19日、旅団長たるには階級が低いとの理由で予備役とされた。同年4月27日、タシュルジャ郡長兼混成コソヴァ軍団司令部に配属され、7月27日に同軍団参謀長に任命された。1911年1月15日、参謀本部第5課長に任命され、10月2日にはイシュコドラ (シュコドラ)にいた際に西ルメリアをイタリアから防衛するために編成された西部軍司令部の隷下に入れられ、10月6日にイペキ・サンジャク (ペヤ)の知事に任命されたが、10月19日、イスタンブールに送られ参謀本部での任務に戻った。1912年2月11日、アルバニアとルメリア3県 (Vilayat-? Selase: サロニカ、モナスティル、コソヴォの3県)の改革決定を履行するため内務大臣ハジュ・アーディル・ベイを主席として組織された委員会の委員を務め、5月9日、宰相府に新設される書記局に配属された。7月3日、ヤコヴァ (ジャコヴィツァ)駐留の第21師団長代理に、8月6日にはコソヴァ総軍参謀長に任命された[1]
バルカン戦争

バルカン戦争勃発前夜の1912年9月29日、ハレプリ・ゼキ・パシャの指揮するワルダル軍司令部の第1課長に任命された。第一次バルカン戦争で、ワルダル軍はクマノヴォの戦い(英語版)で敗北しモナスティル (ビトラ)に引いたが、モナスティルの戦い(英語版)でも敗北してアルバニアまで後退した。この間、フェヴズィの弟ムフタールは、モナステイル北西のオブラコヴォ高地で戦死した。1913年5月10日、ワルダル軍参謀長イブラヒム・ハリル大佐がイスタンブールに召還されたため、参謀長職を代行した。6月19日、ワルダル軍司令部は、「カラデニズ」と「ギュルジェマル」に分乗してセマンからイスタンブールに撤収した。その後、フェヴズィは、8月2日、アンカラ予備師団長、12月22日、第5軍団長に任命された。
第一次世界大戦

第一次世界大戦でもガリポリの戦いパレスチナ戦線、カフカース戦線(英語版)などさまざまな戦線で従軍したが、大戦末期の1918年、オスマン帝国の参謀総長および軍事大臣に就任した。
トルコ独立戦争詳細は「希土戦争 (1919年-1922年)」を参照

しかし、ムスタファ・ケマル (アタテュルク)がアナトリアに渡った後、1920年4月にアナトリアに渡り、4月27日にアンカラに至り、トルコ革命に身を投じた。このためオスマン帝国政府から欠席裁判で死刑判決を受けた。セーヴル条約で軍備制限されていた軍の実力者としてこれを再建し、ムスタファ・ケマルを助けた。イスメト (イニョニュ)がキュタヒャギリシャ介入軍に敗れたのちは、軍の指揮を引き継いでトルコ軍の潰走を押しとどめ、サカリヤ川の戦い(英語版)でギリシャ軍の撃退に成功した。ギリシャ軍との最終決戦である1922年のドゥムルプナルの戦い(英語版)でもムスタファ・ケマルと共に軍の指揮を執り、勝利後の8月31日に元帥に列せられた。現在に至るまでトルコ軍で元帥に列せられたのはムスタファ・ケマルとフェヴズィ・チャクマクのみであり、現在トルコ語で「元帥(Mare?al)」という場合、特に注がない限りフェヴズィ・チャクマク個人を指している。軍司令官であると同時に、トルコ革命中の1921年から翌年まで、アンカラにあるトルコ大国民議会派政府の暫定首相を務めた。
共和国期

制服を脱いで政治家に転じたムスタファ・ケマルやイスメトとは対照的に、トルコ共和国成立後の1924年に大国民議会議員を辞して軍人職に専念、同年から20年にわたりトルコ軍参謀総長を務めた。政策にも隠然たる影響力があり、拡張政策を続けるイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニを警戒して、イタリア領ドデカネス諸島の対岸にあたる地中海沿岸地域と中央アナトリアを結ぶ鉄道の建設を、国防上の理由から許さなかった。退役後、民主党の名簿から無所属候補として出馬し、イスタンブール選出議員となった。多党制移行に伴い、オスマン・ビョリュクバシュらの結成した国民党の名誉党首となるが、ほどなく1950年にイスタンブールのテシュヴィキイェの医療施設で死去した。
家系図

                                 

   キャーミレ
(?-1915) デルウィーシュ
ヒュセイン
(1782??1897/98) ユズィレ     ホジャ・ベキル
(1815?1898) フィトナト       
     
                                       
                           
 ハサン・ヴァフスィ
(1858?1927) ラースィム
(1870?1945) テヴフィク アリ・スッル
(1855/6-1914) ヘスナ アイシェ・シャフヴェル アリ・ヌーリ
(1866?1901) エミネ・エダー 
    
                                     
                 
         メフメド・ナーズィフ
(1882 ? August 8, 1915 
[2]) ムフタール
(1884 ? November 16, 1912 [3])  サーミ
(1892?1909) ネバハト
(1894?1986)          

                                    
          
              ムスタファ・フェヴズィ ファトマ・フィトナト
(1891?1869)     ミュニル   
  
                                   


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