フェルナン・ブローデル
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フェルナン・ブローデル
Fernand Braudel

人物情報
生誕1902年8月24日
フランスムーズ県リュメヴィル=アン=オルノワ
死没 (1985-11-27) 1985年11月27日(83歳没)
フランスサヴォワ県クリューズ
出身校パリ大学
学問
学派アナール学派
研究分野歴史学
研究機関サンパウロ大学
パリ政治学院
パリ大学
高等研究実習院
社会科学高等研究院
コレージュ・ド・フランス
称号レジオンドヌール勲章コマンドゥール
特筆すべき概念長期持続
影響を受けた人物ポール・ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュアンリ・ピレンヌマルク・ブロックリュシアン・フェーヴル
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フェルナン・ブローデル(Fernand Braudel、1902年8月24日 - 1985年11月27日)は、フランス歴史家経済状態や地理的条件が世界史において果たす役割に注目し、20世紀歴史学に大変革を起こした。アナール学派の代表人物。
生涯
出生から青年期まで

20世紀最大の歴史家のひとりとして数えられるフェルナン・ブローデルは、1902年、北仏ムーズ県バル=ル=デュックの40キロメートル南方に位置する小さな農村リュメヴィル=アン=オルノワで生まれた。父シャルル・イレール・ブローデルは小学校教師をしていた[1]。ブローデルの生まれた村はドイツ国境に近いロレーヌ地方に位置しており、虚弱児と診断されたブローデルは[2]、そこで祖母に預けられ、輪作水車小屋鍛冶屋のしごとなどを体験し、幼少のときから普仏戦争クリミア戦争の体験者の話を聞いて育った[1][2]1909年、父の転勤にともないパリ郊外のメリエルの小学校に入学した。ここで映画俳優ジャン・ギャバンとは同級生であった[1]第一次世界大戦におけるフランスの愛国的な雰囲気のなかで青年期をむかえ、進学したリセ(官立高等中学校)では漠然と医者になることを考えていたという[1]。リセ・ヴォルテール卒業後はパリソルボンヌ大学歴史学科に進み、地理に関心をもった[3]。そこでは、歴史家であり経済史家であるアンリ・オゼール(フランス語版)などの講義を受けた。
リセ教師から研究者へ

卒業後は、1923年から1926年まではアルジェリアコンスタンティーヌ、1926年から1932年まではアルジェでリセの教壇に立ち[注釈 1]地中海世界に強い関心を抱く契機となった。この間、1925年と1926年には兵役によりラインラントを広く旅し、ドイツについて見聞を深める機会を得た。その後、1932年から1935年にはパリのリセの教師を務めた[4]。この間、1927年にはリセの学監の娘であったポーレット・ヴァリエと結婚したが離婚、そののち、1933年にはアルジェ時代の教え子であったポール・ブラデル(当時18歳)[注釈 2]と再婚した。

1935年から1937年にかけて、フランス政府の命令でブラジルサンパウロ大学で教壇に立ち[注釈 3]、1937年からはパリ高等研究実習院 (EPHE)[注釈 4]の第4部門に勤務することとなり、歴史哲学の研究にたずさわることとなった。

1929年に歴史学誌『社会経済史年報(Annales d'histoire economique et sociale)』を創刊した歴史学者で、終生、ブローデルの「精神的な父」であった[1]リュシアン・フェーヴルとは1937年に出会った。フェーヴルの同僚で『年報』創刊に携わり、ユダヤ人であったため1944年ナチスによって銃殺されたマルク・ブロックとの親交が始まったのもこの頃であった。
捕虜生活

1939年、リュシアン・フェーヴルの別荘で、のちに『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』(日本語題『地中海』)として結実することとなる博士論文を書き始めたが、その年すぐに第二次世界大戦が勃発し、ブローデルは砲兵隊中尉としてライン戦線(マジノ線)に動員された。1940年6月29日にはドイツ軍捕虜となり、以後戦争の終わる1945年まで収容所で過ごすこととなった。その間、書き続けられた学習用ノートはフェーヴルのもとへ送られている。マインツ大学(正式名称は「ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ」)。2006年1月撮影

1940年6月から1942年春まではマインツの将校捕虜収容所に収容されたが、資料のない状態にもかかわらず記憶だけをたどって博士論文の執筆を継続した。1941年に初稿を受けとったとき、フェーヴルは「とてもいい。じつに秀逸で、独創的で、力強く、生き生きとしている」「書き直すことなんかありません。早く書き終えなさい」と応えている[5]

ブローデルは、1941年から収容所内の同輩に対し定期的に講義をおこない、研究指導もしていたために、「捕虜収容所大学学長」に任命されるなど特別待遇を受けることとなった。マインツ大学図書館の古文書館から文献資料を自由に借りることができたため、多くのドイツ語史料を渉猟することができたのである[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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