フェルナンド3世_(カスティーリャ王)
[Wikipedia|▼Menu]

フェルナンド3世
Fernando III
カスティーリャ国王
フェルナンド3世像
在位1217年 - 1252年(カスティーリャ王)
別号ガリシア国王

出生1201年
レオン王国、ペレアス・デ・アリバ、バルパライソ修道院
死去1252年5月30日
カスティーリャ王国セビリア
埋葬 カスティーリャ王国セビリア大聖堂
配偶者ベアトリス・デ・スアビア
 ジャンヌ・ド・ダンマルタン
子女一覧参照
家名ボルゴーニャ家
王朝ボルゴーニャ朝
父親レオン王アルフォンソ9世
母親カスティーリャ女王ベレンゲラ
テンプレートを表示

聖フェルナンド3世

列聖日1671年
列聖決定者クレメンス10世
記念日5月30日
守護対象セビリア、他
テンプレートを表示

フェルナンド3世(Fernando III, 1201年 - 1252年5月30日)は、カスティーリャ(在位:1217年 - 1252年)。父はレオン王アルフォンソ9世、母はカスティーリャ女王ベレンゲラで、カスティーリャ王アルフォンソ8世(高貴王)の孫に当たる。

レコンキスタを積極的に推進してキリスト教勢力を大きく拡大、イスラム教勢力を服属させレコンキスタを事実上完了させた。その功績により列聖、「聖王」と称えられた。カトリック教会聖人で記念日は5月30日。
生涯
両国の王位を継承

父のアルフォンソ9世はポルトガル王女テレサと結婚していたがローマ教皇ケレスティヌス3世の介入で婚姻無効を余儀無くされ、1197年にベレンゲラと再婚した。2人の間に生まれたのがフェルナンドだが、代替わりした教皇インノケンティウス3世の介入でこの婚姻も無効となり、母はレオン宮廷を去りフェルナンドはレオンに残された[注釈 1][2][3]

1217年、母方の叔父のカスティーリャ王エンリケ1世が嗣子無くして死去すると、その甥であることから、母を中継ぎにする形でカスティーリャ王に即位することとなった。この時、母が派遣した使者にレオンからカスティーリャへと連れ出されたが、父がサアグン協定を口実にカスティーリャ王位を継ぐことを避けた母の画策とされている。カスティーリャに到着してすぐに母から王位を譲られ、それを認めない父と大貴族ララ家の抗議に苦しんだが、1230年に父が亡くなるとレオンの継承者だった2人の異母姉を説得(母が交渉に当たったとも)、レオン王位も継承してレオンのカスティーリャへの併合も果たしている[4][5][6][7][8]
ムスリム懐柔とレコンキスタ推進

この頃になると北アフリカムワッヒド朝を始めとする、イベリア半島南部アンダルスのイスラム教勢力(ムスリム)は衰退の一途をたどっていた。ムワッヒド朝カリフユースフ2世が子の無いまま1224年に亡くなり、後継者争いで内乱が勃発し分裂・弱体化していたからであり、ムワッヒド朝はモロッコマリーン朝チュニジアハフス朝との抗争に忙殺、アンダルスへ出兵する余裕が無かった。イベリア半島でも分裂が起こり、ハエンでイブン・アフマル(後のナスル朝グラナダムハンマド1世)が、バレンシアでザイヤーン・イブン・マルダニーシュ(英語版)が、ムルシアイブン・フードら小君主(タイファ)たちが台頭、複数のカリフ候補者(マラケシュアブドゥル・ワーヒド1世セビリアアブドゥッラー・アーディルコルドババエサでアブー・ムハンマド・アル・バイヤーシー(スペイン語版)がカリフを要求)も乱立して互いに相争う始末であった[注釈 2][10][11]

そこでフェルナンド3世は、ムスリムの分裂に付け込んでレコンキスタを推進することにした。レオン王位継承前の1224年6月、カスティーリャの宮廷で母と諸侯にムワッヒド朝攻撃を宣言、9月末にケサダ(英語版)を攻略した。それから調略と武力を巧みに使い分け、アーディルとバイヤーシーの争いに付け込み、同年にバイヤーシーと兄弟のバレンシア総督アブー・ザイド(英語版)を臣従させ、親アーディル派の地方を攻撃した。バイヤーシーとの協力を取り付けると翌1225年にハエンを攻撃、ハエンは落とせなかったがプリエゴ(英語版)などを陥落させ、身代金を支払った住民以外を虐殺する手段でグラナダなど他のアンダルスの住民を恐れさせた[12][13]

この遠征ではバイヤーシーから協力の見返りとしてマルトスアンドゥハルなどいくつかの都市を受け取っただけでなく、元カスティーリャの貴族だったアルバロ・ペレス・デ・カストロ(英語版)も帰順するという成果があった。アルバロは父のペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(英語版)共々ムワッヒド朝に仕えていたが、フェルナンド3世はアルバロの帰順を受け入れ一旦トレドへ戻った。その間留守を任されたアルバロがカラトラバ騎士団長ゴンサーロ・イアーニェス・デ・ノボーアやバイヤーシーの軍と共にグアダルキビール川を下って進軍、ムワッヒド軍を破ったおかげで再度アンダルスに進軍した時、バイヤーシーからバエサなどを受け取り着実にレコンキスタは進展した。翌1226年にバイヤーシーはコルドバ住民の反乱で殺されたが、残されたアルバロ・ゴンサーロらはグアダルキビール川流域攻撃を続け、ムワッヒド軍と休戦を取り付け、引き続き各都市攻略に邁進していった[14]

1230年、ハエン包囲中に父の訃報を知ると、包囲を切り上げレオンへ向かい、レオン王を兼任したが王位の実効支配は2年かかった。この間フェルナンド3世が不在のアンダルス征服はトレド大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダや弟のモリナ公アルフォンソとアルバロに委ねられ、ロドリゴはムスリム勢力に奪われたケサダを1231年に奪還、モリナ公とアルバロはヘレス・デ・ラ・フロンテーラに進軍してイブン・フードの軍に勝利した。勢いに乗ったキリスト教勢力は1233年から1235年にかけてイベリア半島南西部を征服、ゴンサーロ率いるカラトラバ騎士団とサンティアゴ騎士団トルヒーリョ、メデリン(英語版)、マガセーラ(英語版)など西部都市を攻略した。ポルトガルもレコンキスタに取り組み1250年までに完了させたが、ポルトガルとカスティーリャは征服後の領土に関する分割条約を結んでいなかったため、国境紛争が起こった。この問題が解決するのは交渉で国境が確定した1267年までかかった[15][16]
コルドバ攻略

1233年1月、タイファの1人であるフードとイブン・アフマルが争い続けるのを尻目にウベダを包囲、7月に住民の退去を条件として降伏させた。1235年になってもフードとアフマルの抗争は続いていたため、フェルナンド3世はフードと同盟して1年間の休戦と貢納金(パリア)の430,000マラべディ(英語版)の支払いを取り付け、アフマルの支配下の領土を荒らしながら都市を落として回り、着実にレコンキスタを進めていった[16][17]

1236年1月、独自に行動していたキリスト教徒の一部隊がコルドバの郊外区を占領、アルバロやフェルナンド3世に救援を要請した。この時期は道路がほとんど通行不能で、コルドバ市民の反撃でキリスト教徒部隊が敗北する恐れや、フードがコルドバへの援軍に来る可能性も入れるとコルドバへの行軍は危険だったが、フェルナンド3世は行軍を決意するとコルドバへ急行、モリナ公や先に到着していたアルバロらと合流、コルドバ包囲戦(英語版)が始まった。コルドバ市民の必死の抵抗やフードの来援など包囲は危機を迎えたが、フードがコルドバを救援せず撤退したため危機を脱し、コルドバへの食糧補給停止とアフマルと結んだ同盟が功を奏し、住民の退去を受け入れコルドバを降伏させ、6月29日にコルドバ総督から鍵を受け取り翌30日に市内へ入城した。こうしてコルドバを奪取した[4][16][18][19]

戦後処理は手間取りフエロの授与は1241年までかかり、市内の所領分配や植民・食糧供給などに忙殺されたが、コルドバ陥落の意義は大きく他のグアダルキビール川流域の多くの町や要塞を奪回した。この征服で活躍したのは息子のアルフォンソ王太子(後のアルフォンソ10世)とアルバロで、1240年のアルバロ急死という痛手はあったが、王太子の方は順調に進み、コルドバに留まったフェルナンド3世は数十の都市と降伏文書を交わし、レコンキスタを一層推し進めていった。1238年にフードが殺害、遺族がフェルナンド3世に臣従したことや、勝者となったアフマルもまた協力者だったことも有利に働いた。同年、グラナダを支配下に収めたアフマルはナスル朝を開き(ムハンマド1世)、アンダルス南部を支配したが、フェルナンド3世との協力関係は続いた[16][19][20][21]
レコンキスタの完了

イベリア半島南東でもレコンキスタが継続、王太子とサンティアゴ騎士団長ペラヨ・ペレス・コレア(英語版)はムルシアへ進軍し、1243年に領主アブー・バクルをカスティーリャへの臣従やカスティーリャ軍のムルシア要塞駐屯、パリアの支払いと引き換えにしたイスラム教住民や法の尊重を条件に降伏させた。この地域にはバレンシアから南下して来たアラゴンハイメ1世の軍も進出、ハティバで接触した両軍に不穏な気配が生じたが、翌1244年3月26日にアルミスラ条約(英語版)を結び両国の獲得領土とその境界線を取り決めたことで紛争は避けられた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef