フェルナンド2世
Fernando II
アラゴン国王
カスティーリャ国王
フェルナンド2世(ミケル・シトウ画)
在位アラゴン王:1479年 - 1516年
カスティーリャ王・レオン王:1474年 - 1504年
別号レオン国王
バルセロナ伯
バレンシア国王
ナバラ国王
シチリア国王
ナポリ国王
出生 (1452-03-10) 1452年3月10日
アラゴン王国
ソス
フェルナンド2世(西:Fernando II、Fernando el Catolico 1452年3月10日 - 1516年1月23日[1])は、アラゴン王(在位:1479年 - 1516年)。カスティーリャ王としてはフェルナンド5世(在位:1474年 - 1504年)。カタルーニャ語名ではフェラン2世(Ferran II)、アラゴン語名ではフェランド2世(Ferrando II)。カトリック王(el Catolico)と呼ばれ、最初の妻であるカスティーリャ女王イサベル1世と共にカトリック両王(Reyes Catolicos)と呼ばれる。カスティーリャ王フアン1世の曾孫、カスティーリャ王エンリケ2世の玄孫、カスティーリャ王アルフォンソ11世の来孫、カスティーリャ王フェルナンド4世の昆孫、カスティーリャ王サンチョ4世の仍孫、カスティーリャ王アルフォンソ10世の雲孫である。 父はアラゴン国王フアン2世、母は2番目の妃であるカスティーリャ貴族の娘フアナ・エンリケスである。異母兄にビアナ公カルロス、異母姉にブランカ(カスティーリャ王エンリケ4世の妃)とナバラ女王レオノール、同母妹にフアナ(ナポリ王フェルディナンド1世の妃)がいる。 最初の妻であるカスティーリャ女王イサベルは、トラスタマラ家の同族で又従姉にあたる。2番目の妻ジェルメーヌ・ド・フォワは異母姉レオノールの孫で、自身の姪孫にあたる。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 54歳のフアン2世と27歳の後妻フアナ・エンリケスの間に生まれる。フアナにとっては第1子であった。1461年、フェルナンドが9歳のときに異母兄カルロスが死去し、アラゴンの王太子となる。 1468年、父からシチリア王位を継承し、シチリア王フェルディナンド2世となる。1469年10月19日にカスティーリャ王女イサベルと結婚する[2]。この婚姻関係の効力として、1474年にイサベルが女王に即位したのに伴い、カスティーリャ共治王フェルナンド5世となった。それまではアラゴン王である父を補佐し、対フランス王国戦に従事していたが、これ以降はイサベルと共にカスティーリャ国内の統一、そしてイベリア半島に唯一残ったイスラム教国グラナダ王国との決戦を最優先とする方針を固める。 まずカスティーリャの王位継承問題に介入してきたポルトガル王アフォンソ5世と戦い勝利した後、カスティーリャ領内の反イサベル派を北から南へ討伐していく。その中途の1479年、フェルナンドは老父の死去に伴いアラゴン王位を継承し、アラゴン王フェルナンド2世となる。カスティーリャの共同統治者であるフェルナンドがアラゴンの王位をも得たことにより、両国は内政面ではそれぞれ独立しているものの対外的には一体化し、カスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国(イスパニア王国)が誕生した[3]。1492年1月、グラナダ王国を滅亡させて、約800年にわたるレコンキスタに終止符を打つ。1496年にはローマ教皇アレクサンデル6世により、この偉業が讃えられ、フェルナンドとイサベルは「カトリック両王」の称号を授けられることになる。 フェルナンド夫妻はグラナダ戦の後、休む間もなく王宮をバルセロナへ移し、対フランス戦へ突入した。翌1493年に和平条約が成立し、フランスはピレネー山脈の北側に撤退した。しかし、この和平が一時的なものであることは容易に予測できたため、他の強国との婚姻政策をとる。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘マルグリットを長男フアンの妃に、同じく皇帝の息子ブルゴーニュ公フィリップを次女フアナの婿に、また、イングランド王ヘンリー7世の長男アーサー王太子を四女カタリーナの婿として、スペイン、オーストリアとネーデルラント、イングランドのフランス包囲網を形成した。
血縁関係
生涯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
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