フェルディナン・ビュイッソン
Ferdinand Buisson
オートクローム技法による肖像写真(1930年)
生誕 (1841-12-20) 1841年12月20日
フランス王国、パリ
死没1932年2月16日(1932-02-16)(90歳)
フランス共和国、オワーズ県ティウーロワ=サン=タントワーヌ
ノーベル賞受賞者
受賞年:1927年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:独仏融和への貢献に対して
フェルディナン・エドゥアール・ビュイッソン、またはビュイソン(Ferdinand Edouard Buisson、1841年12月20日 - 1932年2月16日) はフランスの哲学者、教育学者、政治家。17年間にわたって公教育省の初等教育局長(1879-1896)を務め、とりわけ公教育相ジュール・フェリーが初等教育の無償化、義務化、非宗教化(ライシテ)を推し進めた1880年代の教育改革において法案の立案・執行の任にあたるほか、教育学の古典であり、かつ現在に至るまで高い評価を得ている『教育学・初等教育事典』を編纂した。ソルボンヌ大学教育学講座の初代教授を務めた後、急進派の議員となり、1905年の政教分離法(ライシテ法)の制定にあたり検討委員会の委員長を務めた。また、教育同盟(フランス語版)の会長(1902-1906)、人権連盟の会長 (1913-1926) を歴任し、第一次世界大戦後は独仏融和のために尽力。その功績により、1927年にドイツの政治家・平和運動家ルートヴィッヒ・クヴィデと共にノーベル平和賞を受けた。 フェルディナン・ビュイッソンは1841年12月20日、パリでピエール・ビュイッソン(Pierre Buisson)とアデル・オレリー・ド・リボークール(Adele Aurelie de Ribeaucourt)の間に生まれた[1]。敬虔なプロテスタントの家庭で、父ピエールは弁護士、次いでサン=テティエンヌ(ロワール県)裁判所の判事であったが、フェルディナンが16歳のときに死去したため、家庭教師などをして家計を支えながら学業を続けた[1][2]。リセ・コンドルセを卒業した後[3]、高等師範学校の一次試験に合格したものの、健康状態を理由に(あるいは彼の信条を理由に)入学を許可されなかった[4]。1862年に文学の学士号を取得し、1868年に哲学のアグレガシオン(大学教員資格)を取得した[3][5]。 だが、当時(第二帝政下)、フランスで教育職に就く際には皇帝(ナポレオン3世)への忠誠を宣誓する必要があったが共和派の彼はこれを拒否したため教職の道を閉ざされ、さらに、既に自由主義的プロテスタントとしての方向性を固めていたために正統派にも改革派にも容れられず、スイスに亡命した。これは、1851年のルイ=ナポレオンのクーデターによって追放されてベルギーに亡命し、当時スイスに住んでいた元コレージュ・ド・フランスの教授で歴史学者・哲学者のエドガール・キネ 1870年にフランスに第三共和政が成立すると早速帰国し、社会活動に参加。とりわけパリ17区に設立された最初のライック(非宗教的)な孤児院の運営に携わった。1871年、アドルフ・ティエール政権下で公教育相を務めたジュール・シモン 1879年、公教育相ジュール・フェリーにより初等教育局長に任命され、以後1896年まで17年間の長きにわたってフランスの教育改革に貢献することになった。とりわけ1880年代はフランスの初等教育制度の根幹をなす無償、義務、非宗教性(ライシテ)の三原則が確立された時代であり、共和派・反教権派がカトリック勢力との対立・駆け引きを通じて粘り強く改革を推し進め、1881年6月16日の法律により初等教育の無償制[9]、1882年3月18日の法律により初等教育の義務制および公教育の非宗教性[10]が確立した。
思想・業績
プロテスタンティズム
スイス亡命
第三共和政、帰国、初等教育視学官
初等教育局長 ― ジュール・フェリー法の立案・執行